現代の富国強兵

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次の記事を書いた朝鮮日報の鮮于鉦氏は長らく朝鮮日報の日本特派員を勤めた人物で、ある意味親日家と言っていい。ある意味とは、朝鮮日報の記者であり続けていることが証明しているように、決して正確で公平な記事を書くわけではないが、すくなくとも日本について書くときはそれなりに抑制した筆致であり、その分だけまともだと言うだけのことだ。

さて、彼が今回書いたのがこの記事だ。

赤文字は引用

【コラム】富国も強兵も嫌ならば

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)社会部次長
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

 2年前に京都の耳塚を訪れた。丁酉再乱(1597-98年の慶長の役)のとき、日本軍が殺害した朝鮮の人々の鼻をそぎ落とし、塩漬けにして持ち帰ったものを葬った墓だ。鼻塚という言葉は非常に残酷なため耳塚と呼んだというのだから、自分たちがどんなに残虐なことをしたかを分かっていたのだろう。
 
 まず、今の感覚で残酷というなら確かに残酷だが、当時、戦果を挙げた証拠としてもっとも信頼されたのは首だった。したがって、敵兵を倒したとき、特に名のある武将などを倒したときは、その首は後の恩賞のために必要欠かさざる物だったし、陰武者の首や偽首を防ぐための首実検は、公平な恩賞のためにはどうしても必要だった。
 
 その場で首実検が出来ない場合はわざわざ本国へ運ぶことなども必要だったわけで、そのために首を塩漬けにして遠路はこぶなどは普通にあった。
 
 朝鮮から首を持ってくることはさすがに出来ないし、それに朝鮮人の顔を誰も知っているわけではないからあえて首を取る必要もなく、耳や鼻をそぎ落とした。その内に人間に一つしかない鼻をそぎ落とすようになった訳だ。鼻や耳の場合、必ずしも持ち主が死んだだとは限らないだろう。
 
 つまり、首を切り落とすのが普通であった当時、鼻や耳を切り落とすのは単におもしろ半分だったのではなく戦功の証明だったのであり、しかも塚までつくって供養していることは、考慮すべきだ。
 
 日本の戦で敵将の首を取ったときも、あとで丁重に送り返したり、供養をしている。それに対し討ち取られた方もそれを残念には思うが、残酷なことをしたとは夢にも思わなかったはずだ。まあ、例外としてはさらし首にされたり、信長が浅井長政らのされこうべで杯を作ったことなどが特筆されるが、これも別に当時として礼を失した行為ではなかったとも言われている。
 
 つまり鮮于鉦氏は日本の歴史で戦とはどういうことであったかを全く考慮せず、日本兵がおもしろ半分に朝鮮人を殺して、おもしろ半分に耳や鼻をそぎ落としたと決め付けているようだ。まあ、一般民衆の無抵抗な者への行為だったとすれば、それは責められても仕方がないだろうが、真相は分からない。ただ、朝鮮兵が居なければ、住民の鼻で戦果を競ったことは考えられる。

 そこに建てられた案内板には「戦乱で受けた朝鮮民衆の受難を歴史の教訓として残す」と書かれていた。しかし、戦乱の首謀者だった豊臣秀吉をまつる豊国神社の前に、記念碑のように建てられていることから、教訓というよりも戦功の象徴に見えた。塚のすぐ隣に児童公園を作った町の人々の無神経さも嘆かわしく、その公園で飛び跳ねて遊ぶ子どもたちがこの墓についてどのように教えられているのかも気になった。
 
 ところで、なぜ秀吉が朝鮮征伐を思い立ったかについては、日本国内でも緒論があるが、彼の主君であった信長は、天下を取ったあかつきには、唐天竺まで攻め取りたいものと常日頃言っていたそうだ。信長は地球儀をよく観ていたし、日本が世界では極めて小さな国であることも十分承知していた。また南蛮人から諸外国のことも聞いていたので、日本が唐天竺まで攻め取ることが容易であるとは思っていなかったろうが、不可能とも思っていなかったろう。
 
 なにしろ、草原の一民族でしかない蒙古が中国を統一し、世界では小国であるオランダ、エスパニヤが世界を支配した歴史も知っていた。エゲレスがその後大帝国へと発展したが、その動きも知っていただろう。だから、当時手つかずの朝鮮や中国を日本が支配することも可能だったと考えて不思議ではなかったと思う。
 
 当時はそう言う時代だったのだ。
 
 晩年の秀吉は、妄想が高じ、自分の意向を以てすれば信長の果たせなかった夢を果たせると思ったろうし、さらに元寇の際の朝鮮に対し激しい怒りを持っていたとも言われている。すなわち、高麗の忠烈王は元のクビライにたいし、日本征服を進言し、実際に朝鮮は元寇の先駆けとして、対馬などでは住民を多数虐殺している。
 
 信長の意思と、元寇の落とし前だとすれば、別に秀吉が単に一方的に理由もなく朝鮮を攻めたと言うことではない。まあ、その戦争遂行の仕方に計画性もなく誇大妄想があったのは否めないだろうが、当時のヨーロッパなどはそれが当たり前であり、植民地などはまともな戦争もなく一方的にヨーロッパが作り上げたものだ。日本がそれをしてはならない理由など全くなかった。
 
 さて、ここからがむしろ本題なのだが、
 
殺りくと飢えにより、この戦の間に朝鮮の人口は3分の1にも減少したという説もあり、十万養兵を放棄した代償は、鼻をそぎ落とされた10万人の命だけにとどまらない。もちろん、生き残った人々も生きた心地はしなかっただろう。

 当時の世界で、軍事力を放棄した国家が在ったことは、決して理想でも何でもなく、単に無知だったと言うだけのことだ。世界では、君主が国家を治める場合、必ず強大な武力を手中に収める。それは、国内の反乱を抑える目的もむろんあるが、他国からの侵略を退ける、すなわち国の安全を確保するのが君主の義務であり、更に他国に攻め入り領土や富を奪取するのも君主としての当然の義務だった。それが出来ない君主は役立たずであり、ヨーロッパでは生き残れなかった。
 
 日本では、周囲を海で他国と隔てられていたために他国からの侵略はほとんど心配する必要が無く、また他国を攻め取ることも実質なかなか出来なかったので、軍事力はもっぱら国内での行使目的に限られていた。だから、天下が統一されてしまえば、軍事力はたんなる権威の象徴であり、事実上260年に及ぶ太平の世が築かれたのだ。
 
 幕府は朝廷の軍事部門であり、他の部門ではなく軍事部門が事実上日本を支配したのも当然と言えるだろう。その当時、朝鮮の土太夫達が太平を願ったと言えば聞こえは良いが、国内での国王の一方的な軍事力の集中を嫌い、さらに中国に対する反抗と見られることで自分たちに累が及ぶことを避けただけのことだ。
 
 軍事費が節約出来ただけ国力が増したかと言えば、朝鮮が経済的に上昇した時期など皆無だ。先の忠烈王は元に取り入るために膨大な富を差し出し、ついでに人民まで差し出したために、朝鮮の国力は極限まで疲弊し、そして元寇では莫大な費用を負担させられている。国家を自力で守らない国の典型的な例だ。

強い軍隊で中立外交を推し進めた第15代国王・光海君を追放する際に掲げた最初の大義名分も「大国に対して罪を犯した」というものだった。現代に例えて言えば、士大夫たちは権力に対抗しながら自身の力を着実に蓄える左派ということになる。

なにやら、中国に媚びるどこかの蛆虫たちを彷彿とさせる話だ。

 士大夫たちは、富国強兵策を王権強化のための口実にしか思っていなかった。むしろ富国強兵を放棄することで平和と生存を保障してもらおうとした。それゆえ壬辰倭乱が終わってからわずか38年後に丙子胡乱(1636-37年の清による朝鮮侵略)が起き、それから273年後には日本に国を奪われたのだ。「それでも今日があるのは天の助け」と書いた宰相・柳成竜(リュ・ソンリョン)=1542-1607年=による壬辰倭乱の記録『懲●録』(●は比の下に必)からは、朝鮮という国が存続したのは奇跡としか思えないというため息が聞こえてくる。
 
 朝鮮が存在し続けたかどうかはわからない。というより、朝鮮という国が存在した時期など、今までもほんの少ししかない。たしかに、朝鮮の土地が消えて無くなるわけではなく、人民が消えて無くなるわけではないから、そこに朝鮮という名前だけが残ったと言うだけだ。国家とは、国土、人民、政府、近年では更に他国からの承認があるとされている。朝鮮の長い歴史の大半は、政府はほとんど存在せず、事実は中国の一地方でしかなかったし、日本には併合されている。結局、今韓国が残っているのは日本が下関条約で清から独立させ、更に日本併合から離れたときからであって、全て日本のおかげだ。
 
 奇跡でも何でもない。そうしなければ日本に累が及ぶからだが、今になって大変な累が及んでいる。

 最近では「中国に対する事大主義と文弱は、韓国の歴史に組み込まれた遺伝子ではないか」という気さえする。「海軍基地は周辺国に間違った信号を発する」という政治家たちの主張は「明との関係を対決構図に追いやってしまう」として反発した300年前の左派と少しも変わらない。韓米自由貿易協定(FTA)に反対する人々も、済州海軍基地建設に反対している政治家だ。富国も強兵もどちらも嫌だというのだから、彼らが政権を握れば一体何をもって国を守り、何をもって国民を食べさせていこうというのだろうか。

心底朝鮮は腐りきっている。自力で国を守ることが出来ないのは、今の北朝鮮がそうであるように韓国もそうなのだ。が、それを正面から見つめることが出来ず、劣等感のはけ口を日本にぶつけ、中国におびえながら事大しようとしている。

今でも一国が独立を保つのは難しい。それなりの覚悟と努力が要る。韓国にはそれがひとかけらも観られない。とはいえ、日本政府も余り大きなことは言えない。

 韓国の歴史を見ると、太平の世が100年以上続いたことはない。韓半島(朝鮮半島)をワイキキ・ビーチに移すことができない以上、今後もそうだろう。あいにく韓国は井の中のかわずの鳴き声で軍事基地を留保するほど暇でぜいたくな国ではない。
 
 富国強兵は何も秀吉の時代に終わったのではない。いまもそれは国を保つために必要不可欠なのだ。かつてのヨーロッパの君主のように、自国民を押さえつけるため、或いは他国から奪取するためではない。他国からの脅威をはねつける必要は今も変わらず、そして以前の様に海によって隔てられている恩恵はもう存在しない。周辺には、日本に敵意を燃やす特亜やロシアが存在する。

しかし、今の日本には朝鮮の土太夫のような連中が大手を振っている。自衛隊は暴力装置だと言い放つ輩が政権の中にいて、自衛隊は国を守らない、憲法違反だとほざく政党がある。日本が自国を自力で守ることが軍事大国化だとわめく連中が居る。

それらが全て、日本を敵視している特亜やロシアを利する存在だと、国民がきちんと理解する日は来るのだろうかと思う。


上記に引用されているURLの記事を読む場合は下記の「続きを読む」をクリックしてください。但し、内容確認以外なら、敢えて読む必要はありません
以下は参照用の資料ですので、確認をされる以外はあえて読む必要はありません。

【コラム】富国も強兵も嫌ならば

 2年前に京都の耳塚を訪れた。丁酉再乱(1597-98年の慶長の役)のとき、日本軍が殺害した朝鮮の人々の鼻をそぎ落とし、塩漬けにして持ち帰ったものを葬った墓だ。鼻塚という言葉は非常に残酷なため耳塚と呼んだというのだから、自分たちがどんなに残虐なことをしたかを分かっていたのだろう。

 そこに建てられた案内板には「戦乱で受けた朝鮮民衆の受難を歴史の教訓として残す」と書かれていた。しかし、戦乱の首謀者だった豊臣秀吉をまつる豊国神社の前に、記念碑のように建てられていることから、教訓というよりも戦功の象徴に見えた。塚のすぐ隣に児童公園を作った町の人々の無神経さも嘆かわしく、その公園で飛び跳ねて遊ぶ子どもたちがこの墓についてどのように教えられているのかも気になった。

 歴史書によると、塩漬けにされた鼻は10万人分に上るという。10万という数字を見ると、朝鮮王朝時代の朱子学者、李珥(イ・イ)が戦乱前に説いた「十万養兵論」が思い浮かぶ。李珥が実際にそう言ったかどうかは諸説があるが、戦乱前ではなく戦乱後に話題になったことから、十万養兵論は朝鮮の脆弱(ぜいじゃく)な軍事力に対する民衆の痛恨の思いが込められているとも言えよう。

 当時日本で宣教活動を行った宣教師ルイス・フロイスは、著書『日本史』で日本が壬辰倭乱(1592-98年の文禄・慶長の役)に動員した兵力を15万人と推計した。小西行長が引き連れた先発隊だけで2万人だった。一方の朝鮮は申リプ(シン・リプ、リプは石へんに立)率いる兵士約8000人が弾琴台(忠清北道忠州市)で背水の陣を敷いたものの川で水死して兵力を欠き、街道を平壌城まで一気に明け渡すことになった。殺りくと飢えにより、この戦の間に朝鮮の人口は3分の1にも減少したという説もあり、十万養兵を放棄した代償は、鼻をそぎ落とされた10万人の命だけにとどまらない。もちろん、生き残った人々も生きた心地はしなかっただろう。

当時の知識階級・官僚階級の士大夫たちは、平和を維持するには国防よりも外交の方が容易な手段だと考えていたようだ。朝鮮王朝時代の第4代国王・世宗が火薬により矢を放つ兵器「神機箭」を開発する際に「明との関係を対決構図に追いやってしまう」と反対したのも、第17代国王・孝宗が清を討とうと「北伐」を主張したのに対し「それで国が滅びたらどうするのか」と激しく反発したのも士大夫たちだった。強い軍隊で中立外交を推し進めた第15代国王・光海君を追放する際に掲げた最初の大義名分も「大国に対して罪を犯した」というものだった。現代に例えて言えば、士大夫たちは権力に対抗しながら自身の力を着実に蓄える左派ということになる。

 士大夫たちは、富国強兵策を王権強化のための口実にしか思っていなかった。むしろ富国強兵を放棄することで平和と生存を保障してもらおうとした。それゆえ壬辰倭乱が終わってからわずか38年後に丙子胡乱(1636-37年の清による朝鮮侵略)が起き、それから273年後には日本に国を奪われたのだ。「それでも今日があるのは天の助け」と書いた宰相・柳成竜(リュ・ソンリョン)=1542-1607年=による壬辰倭乱の記録『懲●録』(●は比の下に必)からは、朝鮮という国が存続したのは奇跡としか思えないというため息が聞こえてくる。

 最近では「中国に対する事大主義と文弱は、韓国の歴史に組み込まれた遺伝子ではないか」という気さえする。「海軍基地は周辺国に間違った信号を発する」という政治家たちの主張は「明との関係を対決構図に追いやってしまう」として反発した300年前の左派と少しも変わらない。韓米自由貿易協定(FTA)に反対する人々も、済州海軍基地建設に反対している政治家だ。富国も強兵もどちらも嫌だというのだから、彼らが政権を握れば一体何をもって国を守り、何をもって国民を食べさせていこうというのだろうか。

 韓国の歴史を見ると、太平の世が100年以上続いたことはない。韓半島(朝鮮半島)をワイキキ・ビーチに移すことができない以上、今後もそうだろう。あいにく韓国は井の中のかわずの鳴き声で軍事基地を留保するほど暇でぜいたくな国ではない。


鮮于鉦(ソンウ・ジョン)社会部次長
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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コメント

No title

たかおじさん今晩は。日本国民の理解を得る為には教育の見直しが必要でしょう。
日教組のような左翼教師が教える中韓の主張を鵜呑みにする教育の刷り込みを。本当はどのような歴史だったのか。?これをしっかり教える機会を作るべきでしょうね。大変な作業になりますが。

No title

>2012-03-17 18:23 | 一有権者様

>たかおじさん今晩は。

こんばんは

>日本国民の理解を得る為には教育の見直しが必要でしょう。

当然そうですね。

>日教組のような左翼教師が教える中韓の主張を鵜呑みにする教育の刷り込みを。本当はどのような歴史だったのか。?これをしっかり教える機会を作るべきでしょうね。大変な作業になりますが。

日本の歴史にも闇の部分はあるでしょうね。しかし、歴史はそれも含めてきちんと教えるべきです。同時に歴史だけではなく、地政学や国家関係なども単に仲良くしましょうではなく今日本が直面している国際間の問題は何か、どうすべき等かも合わせて教えなければ歴史を学ぶ意味も半減すると思います。

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