スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

言論思想の自由と言うこと2

最初にクリックしていただけるとありがたいです。

人気ブログランキングへ



昨日のエントリー「思想言論の自由と言うこと」に対し、私が参加しているSNS My 日本の同一記事で、表現の自由とはき違えているのではないかとのコメントを頂いた。

確かに、言論の自由と表現の自由は建て分けが難しい点があるので、きちんとしておく必要があると思う。私の昨日のエントリーは、あくまで思想言論の自由について書いた物であり、表現の自由に就いてではない。

しかし、定義をあきらかにしておく必要があるだろう。

思想の自由

つまり、人間は何を考えても一切自由だと言うことであり、これは北朝鮮であろうと中国であろうと現実にそれを束縛する手段がない以上、自由として置くしかないと言うことだ。また実際自由であるべきなのだ。一人一人の人間は内なる世界を持っておりそれを他者がうかがい知ることも介入することも出来ない。ただし、内なる世界を形成する前の子供に対しては、外界からの影響が大きく関わる。殺人が正当化されている社会で育った子供は、殺人に対して抑止力を持たない。

人間が喩え憎悪する相手でも普通は殺したりはしないが、それは内なる世界で殺人を強く忌避しているからだ。自らが自らを止めているから殺人を犯さない。しかし、上記のように殺人に対して忌避観のない人間は、容易に殺人を犯すだろうし、犯さないとすれば社会的な制裁が加えられるからだ。

思想の自由はこのようなものであり、一度形作られた内なる世界でのいかなる思考も、喩えそれが反社会的であろうと外界から制御できないが故に自由とするしかないと言う面もある。

言論の自由

つまり自分の思想を言葉にする自由だが確かにこれは表現でもあるので、表現の自由の一部ではあろう。

Wiki 日本国憲法第21条

Wiki 表現の自由

最初の数行を読んで違和感を感じたのは、表現の自由と取り違えているから、とあるが、最初に私が採り上げたのは、世界中で思想言論の自由が形式上でも法的に保証されていると言うことであり、それを表現の自由と取り違えていると指摘されても、違うのではないか。上記の憲法21条では、言論の自由は表現の自由の一環として採り上げている。その意味で、言論の自由は表現の自由に内包されているわけだが、それは両者が建て分けられることを意味している。

文字通り考えたことは何でも口にして良いのかと言う話だ。常識的に考えて、子供ではない限り誰でも自分の言葉に責任を持たなくてはならない。自分が人殺しを崇高な行為であると信ずることは、信じているだけであれば実際には自由だ。が、それを口にし特に子供にそれを教育するとなると、取締をせざるを得ないだろう。

今回この記事を書いたきっかけとなったのは、卒業式の折、国歌斉唱のときに起立しなかった教師に対する処罰関連の判決だが、国歌を忌まわしいものと考えるのは自由だ。そして、私的な場所でそれを口にするのも自由だろう。だが、被告達は教師であり、子供に教育をするのが職務だ。日本に於いてはごく自然に国家の尊厳を教育することが求められているはずであり、教育基本法はその精神を最初に謳っている。

その教育を職務とする教師が、国歌を、内心どう思っていようと行動で自らの国歌に対する嫌悪感を示すのは、教育者としての職務規程違反であり、それを処罰するのは当然だろうという話を書いた。そして今回の判決が不備なのは、単に卒業式を妨害したから処罰は適切という見解なのだが、根本的に国家に対する尊厳を、国歌拒否で子供に示した教師の職務違反に対する処罰として考えるべきだったと私は言っているのだ。

これは表現の自由の問題ではない。言論(行動も言論としてみる)の自由をはき違えていると言うことなのだ。

また言論の自由には、事実であるかどうかも大きく関わってくる。今、実は太陽が地球の周りを回っていると天文学者が発表した場合、それは彼が間違っていると彼の学説を封殺するのが正しいのか、彼がそのように主張する根拠を確認するのが正しいのかと言う問題だ。これは表現の問題ではない。あくまで思想信条の問題であり、当然ながら彼の発言の権利は保障されるべきであり、改めて彼が自説の証明が出来ない限り、採り上げる必要はない。

折から、光の速度を超えて移動する物質があるかどうかが大きな議論を呼び起こしており、従来光速は最大であり不変であり、光速を越える現象はないと言うのが恰も地動説のような公理として信じられていたのだが、それが疑わしい、そしてそれを疑う根拠が実験結果で見られるとなれば、私たちは光速不変の公理も見直さなくてはならない。表現の自由とは無関係であろう。

事実であるかどうかはもっと卑近な例がある。誰かを泥棒として告発することは、社会的に必要な場合があり、実際警察はそれをやっているし報道もそれに基づいて為されている。が、とうぜんながら、それが事実なのかどうかの証明は常に必要不可欠であり、誰かが泥棒だと思うと発言するだけでは、名誉毀損、誣告罪という歴とした刑事犯罪になる。

これは自分が誰かを泥棒だと思ったという思想の自由で済むのではなく、実際に口にすることで生ずる問題だからだ。これも表現自由ではないだろう。

ただし、いくら事実でも、誰かの個人情報を勝手に公開してしまうのは、これも場合によっては犯罪行為になる。表現の自由とは別次元だろう。

言論の自由が表現の自由の要素であるとはいえ、両者が違うという意味がご理解いただけるだろうか。

なお、表現の自由でわかりやすいのは、児童ポルノ問題等だ。性描写は現在かなり自由になっているのが現実であり、普通の人間は選択してそれらを目にしないようにしているしそれで済むが、児童ポルノは厳しく規制されている。目にする本人の選択に任せる問題ではないからであり、極めて当然であろう。

ただし、私は現行の児童ポルノ規制には反対しており、特に単純所持の規制については内面の思想の自由を侵すものであると考えるので、真っ向から反対している。これについては過去のエントリーなどをご覧頂きたい。ここでは特に触れない。

同性愛描写や、異常性愛についての描写もそのような嗜好を持つ人々(むろんそれは一切違法ではない)にとっては価値があるのだろうが、通常の人々では目にしようと思わない。表現の自由は、受け取る側の選択に任されているといえる。

残虐な殺戮描写に徹しているバイオレンス小説など、これも法的には今の所野放しであり、そしてこれも受け取る側の責任に任されているから、表現の自由として認められている。

表現の自由に関して言うなら、事実であるかどうかなどは全く問題にならない。これもまた言論の自由と異なる点ではないのだろうか。

その意味で、SF小説に天動説を題材とした作品があっても完全に保証された表現の自由によるものであって、天文学者が学説で主張する責任とは別問題だ。

以上の考察から、アメリカの言論の自由の束縛、特亜の例、宗教国家の例を挙げ、さらに今回の国歌斉唱不起立教師に対する判決を採り上げた。なぜ表現の自由とは異なる問題なのかをご理解いただければ幸いだ。

とはいえ、表現の自由についても、今回の問題はこれとは違う旨を明記しておけば要らざる混乱もなかったであろうから、指摘に対しては感謝をする次第だ。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。