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異常人

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 カミュの異邦人を初めて読んだのは中学生の頃だが、日本語に訳した窪田啓作の訳文がすばらしく、淡々とした語り口がそのまま染みこんでくるようで一気に読んだ。中学生だったから本当は理解したかどうか定かではないが、自分ではいっぱし作品に流れる虚無感を理解したつもりでいた。
 
 さて、昨日異常人の文章を読んだ。虚無感は分かったが全く心に染みこんでくることのない文章だった。失礼、見田宗介氏のことだが、私には異常人に思えてしまった。
 
(時の回廊〉見田宗介「現代社会の理論」 幸福な社会、道筋示した

 
 まず、彼の言葉の
 
 「 福島第一原発の事故で僕が驚いたのは、少し後の世論調査です。あれだけの事態でも、半数以上の人が原発を続けようと答えていた。原発に依存的な構造ができてしまっているのです。成長を続けなければ社会が成り立たないかのごとき成長依存的な社会構造、そして精神構造が根底にある。
 
 という部分が目を引いた。つまり成長を続けなくとも社会は成り立つということだ。では、成長を続ける必要はないのか、いや、成長を続けることで何か不都合があるのかという答えが必要になる。
 
 それについては見田氏は、生物は外界とのバランスが取れたところで増殖が止まるのが普通である、との認識に続け
 
 「地球という有限な環境下での人間も同じことです。実際統計を見ても、世界人口は増え続けてはいるものの、70年ごろを境に増加率は急激に減少している。人間社会は近代という「爆発的な増加期」を経験した上で安定の局面に入ったと僕は見ます。そういう歴史の「変曲点」を通過したのに、人々はまだそのことに気づいておらず、成長に依存するシステムと心の習慣から脱していない。これが現代の矛盾です。
 
 と続けている。まず、彼の認識違いの一つは、人口の減少には未だ歯止めがかからず、安定期に入っているとは言えないと事実。確かに先進諸国では人口増の歯止めどころか、現象に悩んでいるものの途上国では人口減の兆しは見られず、つまり先進国に対し途上国は数で圧倒する傾向、及び途上国での若年層の激増により、途上国の需要は増えているのに供給は自分たちでは出来ず、結局先進国が途上国に供給する形で地球全体の人口は未だ増え続けている。先進国の供給が止まれば、途上国の人口増を支えることは不可能なのだ。
 
 これは、人間が他の生物とはちがう存在であることを示しているのだが、見田氏の大きな間違いのもうひとつは、人間が富を創出する存在だと言うことだ。
 
 確かに人間以外の生物は自然の中に組み込まれ食物連鎖の範囲の中で数を増やしたり減らしたりしている。たとえば気候が変わって草原の草が枯れる状態が長く続くと、まず草食動物が減少しはじめ、草食動物を獲物としている肉食動物が減る。逆に何かの理由で草食動物が増えすぎると、草原の草を食い尽くし草食動物が生きてゆけなくなるためにやはり数を減ずる。すると肉食動物が生きてゆけなくなる。ただし、そうなる前に肉食動物が大量にいる草食動物を食べて数が増え、草食動物の無制限な増加を防ぐ。その結果、草が食い尽くされることが無くなり、草食動物が飢えて死ぬことはない。すると、その総則動物の数だけで生きてゆける数の肉食動物も生きてゆけるし、そして草も食べ尽くされることもない。この状態で、草も草食動物も肉食動物も安定して生きてゆけるわけだ。
 
 見田氏は、人間も生物なのだから同じことだというのだろう。彼が忘れているのは、人間は食物連鎖の中にいないということ、それは人間は富を創出する唯一の存在だからだ。草が生えなくなれば草の種をまいて、水をかけて草を育て、草食動物が減るようなら、肉食動物を駆除して草食動物を飼い慣らし、草も草食動物も食料とした。そのために機能的に遠くの水を導いてきたり、よりよく育ち食べやすい草を選んで育て、さらに草や肉を食べやすくするために火を使った。火は、寒くなって本来生活できない時期でも生活が出来る手段として使えたし、夏の間に確保した食糧を干して保存し冬の間食べ続けることが出来た。
 
 つまり、人間は環境を変え新しい富を生み出すことで、本来生活できない場所、時期でも生活が出来るようになりその結果数が増えたのだ。
 
 これは今でも変わらない。だから、本来数を増やすことの出来ない途上国でも人口が増え続けているのだ。
 
 人類の増加が止まるとすれば利用できる物質が尽きた場合と、エネルギー源が尽きた場合だろう。それまでは人間は食料を作り続け生活圏を広げ続けることが出来る。あくまで可能性の話だが、べつにそれが地球上に限ったことではなく、物資とエネルギー源が有れば、技術的には他の惑星でも宇宙空間でもそれは考えられる。まあ、現時点でその技術的可能性はないが、理論的には可能だという話だ。
 
 つまり、人間は周囲の制限とは無関係に増えることの出来る唯一の生物であり、見田氏の認識はそれを見落としていることだ。
 
 さて、見田氏は最後を次のような言葉で締めくくっている。
 
 「安定期に転じた社会で人々がアートや友情のような、資源浪費的でない幸福を楽しんでいる。それは本当にすてきな社会です。このことは『現代社会の理論』の次の展開として、現代人の孤独の問題などとともに、いま本にまとめています。(聞き手・塩倉裕)」
 
 確かに人間の幸福とは物質だけではない。アートも友情も必要だろうが、そのためにはちゃんと生きてゆけることが前提となる。なぜなら、人間は生きてゆくためには消費をしなければならず、消費した分を補うことが出来なければ安定して生きてゆくことが出来ないからだ。生産性の向上無しにはそれは不可能だ。
 
 また実際の人間は、厳しい労働の合間にも芸術を生み出してきた。そして、現代の人間も、労働と芸術を同時に楽しんでいる。芸術も友情の幸福も、社会が維持されなければ楽しむことは出来ない。人間は唯一未来を想像することが出来る存在であり、状況が生きてゆくために厳しくなってくれば、それを克服することで生存を確保する。そのためにも生産性の向上は必要不可欠なのであり、つまりは、人間の生存のためには成長が必要不可欠なのだ。
 
 成長無しには社会を維持できず、人間は存在できない。人間とはそのような生物であり、他の動物がバランスの取れる状態で安定数を維持するのとは根本的にちがう。
 
 見田氏は、その根本の、人間とは何かを全く理解せずに物を言っているわけだ。
 
 むろん、このようなことを言うのは彼が初めてではない。人間は全て平等になれば平和が訪れ幸福になると考えたマルクスも、基本的に人間が競い合ってより有利な立場を得ようとする存在だと言うことを無視している。
 
 安定した状況でアートや友情を楽しむ世界など、理想とはほど遠いしまた実現するはずもなく、それ以前に目指してはならない世界だ。
 
 見田氏の様な人にとって、成長は悪であり、成長することは破壊であり、成長することは収奪であり、成長することは争いの元であるとの抜きがたい観念があるらしい。
 
 人間は成長しなければ存在できず、成長と共存するように進化した生き物であり、成長するからこそ争いを減らすことが出来、成長するからこそアートも友情も楽しめるのだという基本認識を持っていない人々が、ゼロ成長でも良いではないか、原発が駄目で電力が無くても良いではないかとの理屈で納得してしまうのだろう。
 
 人類が成長してきたからこそ自分がそんなおとぎ話を信じていられることも少しは理解して欲しいものだ。
 
 


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以下は参照用の資料です。確認する場合のみご覧ください。そうでなければ読む必要はありません。


〈時の回廊〉見田宗介「現代社会の理論」 幸福な社会、道筋示した


2011年6月17日11時3分
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 資源の大量採取や他民族からの収奪に歯止めをかけなければ人類に明るい未来はない。だが自由な社会を手放すことなくそれは可能か。この難題に力強く「イエス」と答えたのが、見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)だった。冷戦後に提示され、「美しい」とさえ評された論考の原点は、冷戦下の“東側”にあった。

    ◇

 74年に僕は欧州を放浪しました。

 社会主義国・チェコスロバキア(当時)のプラハで学生たちと夜を徹して話し合う機会がありました。印象的だったのは、彼らが“西側”の自由な世界に強くあこがれていたことでした。

 当時、日本で“現代社会の理論”と言えば、「今の社会は資本主義だから悪い」という前提に立つものが主流でした。けれどプラハの若者たちはその資本主義にあこがれていた。「資本主義だから」「社会主義だから」という前提を取っ払ってみよう、と思いました。「どういう名であれ、人々が現実に幸福な社会ならばいい」とまずは考えてみよう、と思ったのです。

 人間が歴史の中で作ってきた社会を考えてみると、当時の資本主義社会は他の社会よりましと思えた。では、なぜうまく行くのか。理論的にきちんと考えた方がいいと思ったのが『現代社会の理論』のモチーフです。ずいぶん時間がかかってしまいましたが。

 結論は本に書いた通り、情報化と消費化の力だ、というものでした。

 昔の資本主義は恐慌が定期的に来て、それを避けるには戦争で需要を生み出すしかない、ひどい社会だった。けれど20世紀後半になると、大恐慌が起きなくなる。自由な欲望に基づく消費と、デザインや広告など情報の力によって、資本主義のシステムが需要と市場を自ら創出できるように変わったからです。もちろん、資源の有限性、南北問題のような収奪構造など、課題もある。しかし消費化は本来、生産至上主義からの解放であるし、情報化は本来、脱・物質化であるから、両者を組み合わせれば解決は不可能ではない。そう本に書いたのです。この本はカラッとした科学的な議論の本にし、「生きることの意味」など現代人の精神状況の問題は積み残しました。

 福島第一原発の事故で僕が驚いたのは、少し後の世論調査です。あれだけの事態でも、半数以上の人が原発を続けようと答えていた。原発に依存的な構造ができてしまっているのです。成長を続けなければ社会が成り立たないかのごとき成長依存的な社会構造、そして精神構造が根底にある。

 一般に生物は、環境に適応したことで個体数が増え、続いて爆発的な増加を遂げたあと、環境の限界に直面して横ばいの安定期に入ります。そのように環境と共存する術(すべ)を持ちえた集団が、生き残る。

 地球という有限な環境下での人間も同じことです。実際統計を見ても、世界人口は増え続けてはいるものの、70年ごろを境に増加率は急激に減少している。人間社会は近代という「爆発的な増加期」を経験した上で安定の局面に入ったと僕は見ます。そういう歴史の「変曲点」を通過したのに、人々はまだそのことに気づいておらず、成長に依存するシステムと心の習慣から脱していない。これが現代の矛盾です。

 安定期に転じた社会で人々がアートや友情のような、資源浪費的でない幸福を楽しんでいる。それは本当にすてきな社会です。このことは『現代社会の理論』の次の展開として、現代人の孤独の問題などとともに、いま本にまとめています。(聞き手・塩倉裕)

    ◇

 みた・むねすけ 1937年、東京都生まれ。社会学者。東京大学名誉教授。著書『社会学入門』『まなざしの地獄』など。真木悠介名義の著書に『気流の鳴る音』などがある。
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