スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

中国はなぜ危険か 3

中国はなぜ危険か 3

 中国の危険性とは、むろん、前稿で書いたように、彼の国の歴史が大虐殺の繰り返しであり、彼の国では人命にたいする価値観がきわめて希薄だと言うことだ。これは現代ではとりもなおさず中国共産党の危険性そのものと言っていい。
 
 ところで、なぜ中国に共産党が入り込み、政権を担うまでになったのかを考えてみる必要がある。
 
 中国の最後の王朝、清が倒れたのは1911年の辛亥革命によってであるが、この革命を主導したのは孫文たちであり、その理念には日本の明治維新が大きく関係している。1868年、日本は旧幕藩体制から天皇の統治による体制となり、同時に開国をした。そしてあっという間にアジアの大国清をうち破り、世界の大国ロシアをうち破るという偉業を立てた。一方、清はその間列強による蹂躙のままにされ、国家としては衰退の一途であり、あまりにも日本と清との対比から、孫文等多くの中国人たちは、日清戦争の恩讐とは別に、短期間でアジアの小国(あくまで中国人たちの視点)から世界有数の大国へと変貌したその秘密を学ぶべく日本に留学をした。
 
 そして、中国には国家を支える理念がなく、いくら国が大きくても単に清朝が大多数の無知な人民の上に君臨する野蛮国であることを理解した。日本の理念を中国に持ち込めば、中国も近代国家として生まれ変わることが出来る。孫文たちはそう考え、そのためにまず、清朝を倒した。それが辛亥革命だ。
 
 しかし、孫文が理解しなかったのは、中国には近代化を受け入れる土壌そのものが無く、あくまで清が倒れても別の支配層が生まれるだけであり、国家とはあくまで国民の資質による物だとの点だった。以前日本の歴史についてこのブログの「日本の評判」などでも書いたが、日本は開国以前から世界トップの先進国であり、ただ、科学技術の面で欧米に劣っていたから開国当時は欧米の圧力を完全にははねのけることが出来なかったが、開国語急発展し、およそ四半世紀でアジアの大国清をうち負かし、その10年後に、有色人種国家として初めて白人国家で世界でも最大クラスの軍事国家ロシアとの戦争に勝ったのは、単なる努力の結果ではなく、日本にはさかのぼること数百年の先進国としての歴史があったからだ。
 
 日本の成功に刺激され独立したアジア諸国は無数にあったが、未だに日本のような成功を収めた国はない。それはさておき、孫文たちはやはり中国人であり、中華思想の持ち主であったから、アジアで最も優れた歴史と文明を持つ中国が、未開国日本の出来たことをやれないはずはない、と信じ込んだのも無理はない。まず、それが失敗のはじめだった。
 
 せっかく辛亥革命で清を倒しても(清自体日清戦争に敗れるその遙か以前からすでに国家を維持する能力を失っており、さらに欧米の侵略により風前の灯火状態だったから、辛亥革命が無くとも消滅していたろう)早速革命勢力内部での紛争が始まり、結局袁世凱が革命勢力を蹴散らし、中華帝国をうち立て、自ら皇帝の座に着いた。しかし、すぐに倒され、混乱した中国の実権は国民党に握られた。
 
 少し脇道にそれるが、この袁世凱については今の中国では国賊、漢奸とされているし、日本でもその毀誉褒貶ぶりからあまり評価は高くない。しかし、彼が中国の弱点として法整備や規律がないことを理解し日本に学んで軍隊を近代化し、またインフラ整備につとめた点も見逃すべきではない。また、彼による大規模な虐殺もあまり伝えられていない。彼のような立場で大虐殺をしなかったとすれば、それだけでも評価は出来る。
 
 もし、彼が失脚せず中国を再統一していたらもしかしたら今の中国はもう少しまともになっていたかもしれないと考えることも出来る。
 
 いずれにせよ、孫文も袁世凱も、乱れに乱れた中国をまとめるためには強大な権力が必要であり、孫文はそれを議会と考え、袁世凱は皇帝と考えた。しかし、孫文の考える議会も所詮独裁政治の元に存在する議会であり、皇帝と大差はない。また、一方の孫文だが、ただ建国の父としての象徴として扱われているだけで、実際の功績はほとんど無かったとも言える。
 
 だが、それで中国人の性格が改まるわけではなく、国民党内部でも様々な抗争があった。そして、やはり孫文たちが中国人であることを示すことが起きた。共産党を内部に引き入れたのだ。目的のためには手段を選ばず、自分たちの力を増すためには共産主義でも手を結ぶやり方だ。あるいは、孫文はコミンテルンの本当の姿を理解していなかったとも考えられる。孫文は自分を容共主義者であると言っていたのだ。
 
 もともと共産主義はソ連において実践された思想であり、ロマノフ朝を倒したレーニンたちがやはり強権政治でなければ遅れて未開なロシアをまとめることが出来ないために利用した思想だ。レーニンたちは容赦ない粛正をおこない、結果として数百万とも言える虐殺を繰り広げた結果恐怖政治でロシアをまとめた。そして、その思想を世界に広げ、全世界をロシアの傘下におさめるべく結成したのがコミンテルンである。
 
 このコミンテルンの思想は、本来労働者の物である富を資本家が暴力で搾取しているのであるから、それを労働者の手に取り返すには暴力で資本家をうち倒すことしかない、という暴力革命思想であった。国家を改革するには暴力は正当な手段であるということで、造反有理そのものといえる。
 
 とにかく国家をまとめるにも先立つものは資金であり、それに窮した孫文は、コミンテルンから提供される資金ほしさに、国民党内部にコミンテルン支部を作ることを認めた。1924年の事だ。
 
 これが中国共産党の始まりである。しばらくの間コミンテルン中国支部は国民党の中でおとなしくしていたが、その間にオルグをつのり、密かに牙を隠したまま勢力を蓄えていった。
 
 やがて、孫文が没し、あとを継いだ蒋介石はいよいよ国家統一を実現するため、北伐を開始した。その途上で、コミンテルン中国支部による、国民党乗っ取り計画が発覚した。すなわち蒋介石が南京を拠点に新政府を樹立しようとしていたとき、共産党は国民党左派をとりこみ、武漢に革命政府を作ろうとしていたのだ。
 
 国民党は、党内の共産分子を洗い出し、追放した。中国の歴史としては珍しく、単に追放しただけで殺しはしなかった。追い出された共産党員たちは周恩来を中心に国民党軍の一部を乗っ取り、革命軍を組織し暴動をおこした。
 
 同じ頃、独自に農民を組織して農民反乱を計画していた毛沢東が決起した。しかし、双方とも決起はそのときは成功せず、毛沢東軍は略奪を繰り返しながら敗走し、江西省南部の奥地にある井崗山(せいこうざん)の山賊の巣窟に潜り込み、しばらくそこで居候生活をしていたが、後に反乱を起こし、山賊の頭目たちを殺して山賊の群れを乗っ取り、一大武力勢力となった。人民解放軍の誕生であり、もともと人民解放軍とはならず者、匪賊の群れだったのだ。したがって、毛沢東たち一部は読書人(インテリ)だったが、ほとんどの幹部はただのごろつきであり、これが後の大虐殺のルーツにつながる。
 
 毛沢東の意識においては、共産主義という思想は結局はどうでも良かったのであり、権力の掌握だけが目的であって、そのための手段は全く選ぶところがなかったから、このような山賊たちは却って都合が良かったのだ。報償さえ与えれば、ためらうことなく何でもする人間たちこそ、毛沢東にとっては最も望ましい力だったはずだ。
 
 ところで、中国には遊民という階級がある。これは犯罪者たちであり、匪賊や馬賊などとの形をとることもある。壇一雄の「夕日と拳銃」などでは、馬賊を勇壮な武人たちのように描いているが、所詮は盗賊の群れであり、他の国ではならず者、無頼漢と忌み嫌われる。しかし、中国では、やはり歓迎はされていないものの社会の一構成階級として認められているようで、いったんことあれば彼らが天下を取り国家を作るなどは彼の地では頻繁に有った。そして中国共産党の人民解放軍もまさにその遊民だったわけだ。毛沢東自らそれを認めているし、また赤匪と言われていたのもそれなりの理由があった。未だに中国のことを土匪国家というのも宜なるかなであった。
 
 さて、一大勢力となった毛沢東は未だに自分たちにとやかく指令を出してくる中央の共産党本部が煩わしかったし、共産党内部で最大の勢力を握る自分が、中国共産党を指揮するのは当然と考えた。そこで、まず対抗勢力となる他の共産党勢力の中に裏切り者が居るとの噂を広め、密告させた。その手段として、AB団なる物をでっち上げ(アンチボルシェビキ団であり、反共産主義分子と言うこと。AB団はかつて存在したが、当時は消滅していた)誰がAB団であるかを競って密告させたのだが、もちろん最初からAB団など存在しないのだから、密告内容はすべて嘘であり、密告された者もすべて冤罪であった。しかし、冤罪であることはもちろん知りながらとにかく対抗者を排除するのが目的であったから、密告者の情報、目撃談をすべて事実として、まずその密告された者を拘束し、残酷な拷問を加えた。そして苦し紛れの自白をとり、それを人民裁判の証拠として有罪判決を下し、直ちに処刑した。
 
 この際の拷問の様子が次のように記されている。
 
 李文林ら紅軍幹部達の場合、とがった竹釘を両手の爪に差し込み、昼夜を問わず鞭で打ち、血だらけの体に塩を擦り込み、線香に火をつけて顔をあぶったりした。それでも自白を得られなかったので、彼らは李たちの妻たちを連れてきて、夫の前で凄惨な拷問を加えた。火をつけた線香で乳房や陰部をあぶり、両乳房の皮を少しずつ剥いだ。
 
 結局李達は命乞いをし、毛沢東達の望み通りの自白をした。その自白は幹部達による物だから、あとは好き放題、毛沢東による対抗勢力の粛正が始まり、そしてそれは中央の共産党本部にも知れるとなったが、一度毛沢東の主張を受け入れ反乱分子は処刑しても良いとお墨付きを与えた党中央は、その姿勢を翻すことはなかった。もしそんなことをすれば、自分たちの過ちを認めることになり、それは彼らの面子の原理と反するからだ。
 
 事実よりも面子を重んずる党中央のあり方を、毛沢東は熟知していたのだ。先にやってしまった者勝ちと言うことだ。
 
 結果として毛沢東は党中央も粛正し、自らが中国共産党のトップに収まった。
 
 一大勢力となったその以前から、大部隊を養う財源の確保は毛沢東のもう一つの悩みだった。中国では、将軍同士が戦を始めると、方々から兵隊が集まってくるのだが、その際重要なのは兵を食わせることであり、当然ながら大義名分など兵には関係がない。とにかく食わせてもらえて、また略奪のし放題が約束されるのであれば、どの将軍にも着いたし、旗色が悪くなった方を見捨てて敵に着くなどは当たり前にあった。日本の武士による(それに率いられる百姓)の戦争とはまったく意味が違う。とうぜん、毛沢東も膨大な紅軍を食わせなければならないが、その財力が無かった。
 
 そこで、毛沢東が目をつけたのは地方の素封家達だった。
 
 本来中国では中央の統制力が地方には及ばず、地方はそれぞれの名士、素封家が自治を行っていた。地方毎の経済、流通、治安などを彼らが担っていたのだ。彼らのことを郷神等と言うが、毛沢東は農村部で農民を組織して運動を起こしたことから、農民達が郷神に恨みやねたみを持っていることを知っていた。そこで、コミンテルンの思想、つまり資本家が労働者から不法に搾取しているのだから暴力を用いて資本家を倒し、富を労働者の元に取り返すという理屈を農民達に吹きこんだ。
 
 その結果、地方の素封家達はすべて殺戮され、土地は農民達に分け与えられた。そのため、農民達は熱狂的に毛沢東を支持した。土地は農民達に分け与え、家屋は焼き払い、そして金銀などの財物は毛沢東の豊富な資金になった。確かに郷神達は冷酷に農民達を扱ったかも知れないが、彼らに土地を貸し耕させ代金を払い、よそから襲ってくる匪賊達から農民を守るなどの事もしていたはずだ。いわば、農民達にとっては郷神にはそれなりの恩義があるはずだが、そんなことは中国人である農民達には通じない。
 
 対抗者を完全に排除し、膨大な農民を味方につけた毛沢東に敵はなく、結果として蒋介石率いる国民党は台湾に逃れ、毛沢東が中国全土を手中に収めることになった。ただし、政治の実務を担っていた郷神、官僚をすべて殺戮した毛沢東に国の経営が出来るわけが無く、また地方の幹部に収まった毛沢東の部下達は農民や山賊上がりで読み書きも出来ない者がほとんどだったから、国家の統制などとれるはずもなかったから、次の大混乱、大虐殺につながってゆく。
 
 ポルポトにも言えるが、読書人(インテリ)、官僚(実務家)をすっかり排除してしまい、教育制度を完全に破壊してしまった中国はこの時点でほとんどの歴史的価値観を失い中国文化の最後の宝を捨ててしまった。その仕上げが文化大革命だったわけだ。
 
 その国民党との内戦の間に、毛沢東が行った大虐殺は、対抗勢力に対するもの、郷神にに対するもの、また自らに反する地方には徹底して行われ、この間に紅軍、国民東軍による中国人の虐殺は数千万に及ぶとされている。しかし国民党が敗れ、毛沢東が中華人民共和国をうち立てたときから、それまでに倍する大虐殺が始まったのは言うまでもないが、その最たるもの、すなわち大躍進政策と、それに続く文化大革命について、次回は書いてみたい。
 
平成22年06月21日
 
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

トラックバック


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。