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中国はなぜ危険か 2

 昨日中国の対日戦略がどのような物か、別の視点から紹介したい、と書いたが、それには中国の歴史から説き起こす必要がある。なぜ、中国がこれほど反日に徹しているのかその理由は彼の国の歴史に根本がありそうだ。
 
 しかしその前に、中国の反日政策の一例を示したい。
 
 1989年、中国政府による大規模な民衆虐殺事件、天安門事件が起きた。正しくは第二次天安門事件、または四六天安門事件と言われている事件だ。あの天安門でどのくらいの中国人が政府により殺されたかの数字は、中共政府が隠蔽してしまっているが、それでもリアルタイムで世界に紹介され、中国は国際社会で全く孤立した。経済制裁が中国に対して課されていたとき、当初は日本もその制裁に加わっていたが、真っ先に中国に支援の手をさしのべたのはほかならぬ日本だった。日本の経済界のリーダーたちは、中国批判も程々にと、日本世論を押さえ、結果として日本の支援に続くように各国の中国に対する制裁も解除されていった。
 
 むろん、その日本の支援に対する中国からは想像以上の感謝の念があった。すなわち、1990年頃から、中国はそれまでほとんど問題にしていなかった南京虐殺事件を声高に言いだしたのだ。それは、自国の天安門事件の際の大虐殺を、日本の虐殺にすり替えるいつものやり方であり、その手助けをしたのも日本社会党だった。いま、その社会党の残党が民主党を牛耳っている事実から、民主党が何を目指しているか理解できるだろう。
 
 中国全土に二百数十カ所建設され、ねつ造展示物を並べている南京虐殺記念館は、日本社会党の田辺誠の進言によるものであり、その費用、三千万円は日本の総評が寄付した。
 
 現在、中国は江沢民時代のような表だった反日姿勢は見せず、むしろ微笑外交でにじり寄ってきているが、実際には数々の南京虐殺映画を作り、世界中で上映し、華僑のネットワークを通じて世界中で日本に対するネガティブキャンペーンを繰り広げている。北京オリンピック開催に向け、北京には最大級の好日記念館が建設され、外壁には三十万も犠牲者数が大きく掲げられているが、もちろん、この数字に根拠はない。
 
 天安門事件で窮地に陥った中国を助けた日本に対し、このような行為をためらい無くするメンタリティは、お人好しで信頼を寄せる相手を真っ先に殺す中国人留学生の行為に通じる。この、今に至る陰湿な中国の反日政策については、別項で詳述したい。
 
 さて、中国の歴史に話を戻す。
 
 初めての統一王朝とされる秦は建国からほんの十五年で滅びた。それは始皇帝が残虐の限りを尽くし、数十万数百万とも言える人民を殺したため、宦官趙高等の国家乗っ取りを誰もが止めようとせず、そしてやはり趙高の暴政を憎んだ者たちにより趙高が誅殺され、秦はあっけなく滅んだ。
 
 その後、また中国を統一したのは漢の劉邦であり、漢王朝は一時の中断を挟んでおよそ四百年間続いたが、これもまた虐殺の連続だった。司馬遼太郎の「項羽と劉邦」などでは、劉邦は人好きのする愛嬌のある人物として描かれているが、実際は項羽以上の虐殺者だった。
 
 まず、漢が国家として安定してくると、それまで地方の王に封じていたかつての建国に功のあった忠臣たちを次々と謀殺し、一族郎党を根絶やしにして、安心して死んだ。が、劉邦の妻呂后は、その後権力を一手に握り、劉邦の一族をほとんど根絶やしにしたが、特に有名な話では、劉邦の側室戚氏の両目をくりぬき耳をつぶし舌を抜き、手足を切断して厠に投げ込み殺したと言われている。
 
 呂后は、その後呂一族を取り立て、事実上漢を乗っ取ったが、政治的手腕はかなりあり、漢を安定させ発展させた業績を評価する説もある。しかし、呂一族の専横を憎んだ劉氏の残党により、呂一族は根絶やしにされる。
 
 そのような歴史の繰り返しであり、一時の平和な時期をのぞいて、中国の歴史は、世界に類を見ない大量虐殺に彩られている。しかも、中国の大量虐殺が他の虐殺と異なるのは、その残虐性が際だっており、単に殺すだけではなく酸鼻を極めるその殺戮の方法がまるで競うかのような物になっていることだ。大量虐殺と言えばナチスのホロコーストがあげられるだろうし、むろん許し難いが世界では中国の虐殺の歴史をまだ知らない。
 
 それは、世界史というものが未だに西欧の目から見た歴史が中心であり、世界史と言えば西欧史+周辺地域の歴史との形になっているからだ。その無関心は、結果として中国の歴史に対する無知も生んだ。
 
 さて、ナチスのホロコーストは、多数のユダヤ人をガス室に送り込んで殺したとか、飢え死にをさせたという物だが中国人の大量虐殺とは、一番短時間で効果的という理由で生き埋めにしたり崖から突き落としたりで数十万を殺したなどは、まだ手ぬるい。
 
 時間があるときは殺し方を競っている面があり、目をえぐる、手足を切断する、腹を割く、はらわたを引きずり出す、焼き殺す、打ち殺す、切り刻んで殺す、串刺しにするなどがそれこそ競ったような残虐性を発揮している。先に挙げた呂后の例などごく一部の方法でしかない。権力者同士の虐殺の場合、とにかく読んでいて息苦しくなるような残虐性を楽しんでいるかのような描写のオンパレードなのだ。
 
 漢が滅んだ後もむろん、その歴史は続き、前近代の清王朝まで続く。とにかく、いったん権力の座に着けば、何をしてもし放題でありそれこそ絶対の存在になるが、一度権力の場から引きずりおろされると、それこそ十族に及ぶとされる一族郎党ことごとくが惨殺される。だからこそ、中国人が権力を失うことに異常におびえ、後顧の憂いを経つべく、可能性のある者たちを根絶やしにするのだ。むろん、現代の中国共産党の歴史を見ても受け継がれているが、これは後で詳述する。
 
 中国の残虐史を一つ一つあげていてはきりがないが、一つの特筆すべき例を挙げるなら、明代の四川大屠殺があるだろう。ちなみに屠殺とは日本語で言う虐殺であり、南京虐殺も彼らが言うと南京屠殺となる。むろん、これも冒頭にあげたように彼らのねつ造だが、とにかく話を先に進める。
 
 石平 著 「中国大虐殺史」によれば、
 
 十七世紀の半ば、明から清に移り変わる時期、張献忠と言う人物が、四川の住民に対して行った大虐殺であり、虐殺が始まった時期、四川の人口は六百万ほどであったが、張献忠が敗北して虐殺が止まったとき、四川の人口は一万八千人ほどだったという。
 
 明王朝の末期、各地で反乱が起きたが、張献忠もその一人であり、無頼の徒であったとされている。一時は六十万の兵力を要した張献忠はその兵を率いて四川に乗り込んだがとにかく戦ってとらえた明の兵士と民衆を焼き殺したのを皮切りに、成都を攻め落とした張はそこで大西王朝と称する自前の王朝を樹立し、自ら大西朝皇帝となって、四川での大虐殺を始めた。
 
 手始めに守備軍、住民を集め十五歳以上の人間をすべて殺した。これは中国では珍しいことでなく、大人数の捕虜をそのままにしておくと膨大な食料がいるし、またいつ反乱でも起こされるかもしれないので、手っ取り早く皆殺しにするのだが、彼らにとっては合理的な解決手段でしかない。
 
 そのうえ、張は成都を落としてから、一日一万二千人とのノルマを決めて住民殺しを始めた。それは無差別殺戮であり、殺し方を工夫し競う物であった。内蔵をえぐり出し、皮をはいでさらすなどもその一方法であったようだ。
 
 また、帳の妻、陳は域内の僧侶に通達を出し、喜捨をしたいので集まるようにいった。域内の僧侶たちは喜んで集まった。なかにはにわか偽坊主も居たという。そうして集まった僧侶たちは皆殺しにされた。かくして、僧侶、読書人=知識人、官僚、等々が次々と集められ殺された。
 
 当然この大虐殺は住民の反感を買い、各地で反乱が起きたが、帳の解決策はやはり大虐殺だった。町ごと包囲し、全員を殺し尽くす、これを草殺というが、文字通り草を刈るように殺し尽くしたわけだ。
 
 また反乱など起こさなくても、誰かの密告が有ればそれだけでその地域の住民は皆殺しにされた。ここでも、密告の内容などどうでもよく、虐殺の口実が有れば良かったわけだ。
 
 なぜそうなったかと言えば、張は部下に殺人を競わせ、その数の多さに従って官位を与えたので、将たちは部下の尻をたたいて、とにかく理由などどうでも多くを殺すことを命じた。兵たちは殺した人間の数を証明するために、手のひらを切り取り持ち寄ったので、たちまち手のひらの山が出来た。その中の一人は、一日に二百人を殺し、手のひらを台車に積んで持ち帰ったので大抜擢を受け都督(ととく)の地位を授けられたという。
 
 都市部の住人は次々と逃げだし、殺人の効率が悪くなったので、郊外の農村部までその殺戮競争は拡大していった。ところが、農村部の人間が殺され、また逃げ去ったため、農産物の収量が急落し、大勢の兵たちの兵糧が尽き始めた。もともと、六十万もの兵隊を食わせるのは容易ではなく、その上農産物の収奪が出来なくなり、たちまち兵糧の調達に困った。そこで、張献忠が考え出した方法は、殺した人間を兵糧に当てるという一挙両得の解決法だった。
 
 まず、食料のつきた四川を捨てよそへ移ることにして、そのための保存食料を確保することにした。まず成都に残っていた住民二十万余を集め、殺し、肉をそいで塩漬けの保存食にした。張みずから、四川全土から集めた美女三百数十名をことごとく塩漬け肉にしている。
 
 そして、成都から立ち去るとき、成都に火を放ち、肉を切り取った死体もろともすべて灰にした。そして移動中に清の正規軍と出会い、結局そこで負けて、張自身は首をはねられている。清軍はその後成都に至ったが、そこに至るすべての集落はすべて無人であり、成都は灰燼に帰していた。
 
 後の調査によると、四川の六百万人は一万八千人が逃げ延びていただけで、今の四川の住民はその後周辺から移り住んできた人々の子孫だとのこと。
 
 これが現代まで伝わる中国史上最大の虐殺、「張献忠屠川」の全容とされている。しかし、今ではこの「張献忠屠川」が決して中国史上最大の大虐殺ではないことがはっきりしている。
 
 ここで不思議なのは、いくら命じられたとしても、なぜ兵たちが虐殺を楽しむように競ったのだろうか。これは日本に住んでいる我々には理解しがたいが、大虐殺は世界の多くでは別に禁忌ではない。いったん内戦が起きると、アフリカなどでも大量虐殺は簡単に起きるし、カンボジアの例はあるし、ナチスやソビエト、それ以前のロシア帝国の大虐殺、ヨーロッパの歴史、アメリカでの原住民に対する大虐殺、中南米におけるヨーロッパ人の原住民に対する大虐殺、オーストラリアではタスマニア人が絶滅させられている。近年では、ユーゴの内戦などがある。
 
 他国において、大虐殺は珍しいことではないのだ。アメリカによる、原爆投下、大空襲も大量虐殺が目的であった。
 
 したがって日本が世界では特殊なのだ。
 
 日本の歴史では、他国に見られるような数十万、数百万に及ぶ大虐殺の例はない。戦争でも精々殺し合ったとして数千から数万であり、また戦で負けても、島流しになったり敵将が腹を切って、家臣や住民の安堵を約束するなどが大半だった。もちろん、例外もある。一族郎党皆殺しにされた例も無いではないが、それでも妻子や重臣たちの処刑にとどまり、中国のような十族に及ぶ根絶やしなどは無い。
 
 日本では負けた方の将が、勝った相手の家臣になるなどはごく普通にあり、日本では例外的な虐殺者と言われる信長でさえ、相手をそのまま許すなどは多くあった。むしろ、叡山の焼き討ちなども、信長でさえ例外的な大規模殺戮であったに過ぎない。
 
 なぜ、日本は特殊だったのか。気候風土が豊かであり、人心が穏やかという面があるだろうが、最も大きい理由は天皇制だろう。かつて天下を取ったどの人間たちも、自分が天皇に取って代わるなどとした者は居ない。初めて天皇に替わって権力を握ろうとした蘇我馬子も自分が天皇になろうとしたわけではなく、あくまで傀儡天皇を立てただけであって、常に天皇は必要だったのだ。平清盛も、婚姻を通じて天皇の縁戚になったが、天皇を廃して自分が天皇になると言う発想はなかった。
 
 その後のいかなる時期においても、武士が幕府を開いても天下を取っても、必ず天皇の官位をもらい、天皇の代理として天下を収める形をとったから、戦った相手を大虐殺で根絶やしにすること自体発想にはなかったのだ。自分が戦いに勝ち、天下を取れば天皇がその地位を認めてくれる。それ以上は全く必要が無く、何よりおそれたのは朝敵になることだった。
 
 日本において大虐殺が存在しなかった一番の理由は天皇制であり、世界で唯一有史以前から一つの国家として連綿と続いている国家であることがあげられる。むろん、このような歴史は中国の教科書には全く記されず、替わりに南京虐殺を大々的にのせ、日本人の残虐性なら歴史教育の根幹と言っていい。
 
 中国の歴史教科書の95%がねつ造だと公表した歴史学者は現在行方不明であり、生死も明らかではない。
 
 《》内は引用。
 
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中国の人気講師「中国の教科書、95%デタラメ」と発言し波紋!

中国で人気の歴史講師がインターネットの動画講義で、中国の学校で教えられている歴史を否定する発言をし、波紋を呼んでいる。この講師は中国の初代国家主席毛沢東を痛烈に批判し、中国の教科書はデタラメであると主張。ネットユーザーからは「反逆者、反人民的発言」と罵りを受け、動画はすでに削除されている模様だ。

人民日報社が配信している『環球時報』によると、著名な歴史講師イアン・ション・フェイ氏が『中国文化革命』について扱った110分の動画講義で問題発言をしていると報じている。この動画はインターネット上に公開されていたもの。イアン氏は動画の中で以下のように語っている。

「毛沢東主席に会いたいのならば、天安門広場の毛沢東記念館に行けばいい。しかし、その場所は、数多くの人民を血に染めた虐殺者を敬拝する『中国版靖国神社』であることを忘れるな」

「1949年以後で毛沢東主席が唯一うまくやったことは、死んだことである。蒋介石は一党統治を行った独裁者だったが、毛沢東もやはり独裁者だ」

また、歴史教科書に関しても「日本の歴史教科書は中国の教科書より、歴史の歪曲(わいきょく)が少ない。中国の歴史教科書に記述されている内容は、真実が5%程度で残りは純然たるデタラメだ」と教科書の内容を否定している。

さらに政府が敏感に扱うチベット問題にも触れ、「チベットは中国建国以後、特定の独立状態を維持して来た。チベットは国旗も持っている」と国家であることを認め、「ダライ・ラマ14世は中国の侵攻に対抗した功績で、ノーベル平和賞を与えられた」と述べた。

この動画の内容は、数多くのネットユーザーの間で広まり「反逆者」「反革命分子」「反人民的発言」と非難が相次いでいる。政府もただちに動画を削除し、閲覧を禁止する措置を取った。一部ではイアン氏が最近新刊を出版し、その本の販売を増やすために、意図的にこのような過激な発言したのでは、と推測する声もある。ちなみにイアン氏は、これまでに中国史に関する2冊の本を出版しており、テレビ出演もしている人気講師だ。

中国では国に対して不利益をもたらす発言は、厳しく取り締まられている。イアン氏の動画の内容は、中国政府の国策を批判するものだ。そのため動画が広まることを懸念し、政府は対応したものと考えられている。また、台湾に本社を置く『蘋果日報』はイアン氏へのコンタクトを試みたが、本人とは連絡のつかない状態とのことだ。
 
 
 
 中国人にとって、歴史はねつ造するものであり、プロパガンダであり、決して真実を探る学問ではない。これは韓国にも言えるが、だから、日中韓で専門家が集まり歴史の検証をする作業などといっているが、そのような共同作業がまとまるわけがないのだ。日本が南京虐殺については中国の主張を受け入れられないといっているのに、中国では日本が虐殺を認めたと報道されている。
 
 日本は間違いなく世界最古の国であり、また大虐殺などがなかったからそのようにあり得た。この国を解体するのは中国と、中国の意を受けた民主党であるが、それについては別項で書きたい。
 
 次回は、中国共産党の成り立ち、その次は文化大革命、そして中国の反日政策について書いてみたい。中国の反日教育の実態、紅衛兵世代が今中国の中枢にいる事実を書こうと思っている。
 
 なお、この記事を書くに当たり、様々な資料を参照したが、
 
 次の本が中国理解に役立つと思える。それぞれ、中国人が書いた物が主であり、日本人にはうかがい知れないニュアンスが理解できるのではないか。
 
ユン・チアン   マオ 誰も知らなかった毛沢東
ユン・チアン   ワイルド・スワン
石平       中国大虐殺史
孫観漢      病める中国人
王永寛      酷刑
周明       沈思
姜克実      現代中国を見る目
魯迅       阿Q正伝

アーサー・ウォルドロン 平和はいかに失われたか
ラルフ・タウンゼント 暗黒大陸中国の真実
パールパック   大地

後ろの三名はアメリカ人であり、日本人以上に客観的な目で見ていると言えようが、ただしパールバックについて言えば、アメリカ人でありながら、中身は中国人であり、そしてさらにアメリカ人の優位性から中国人を見ている、さらに当時のキリスト教アメリカ人としての目で中国を見ていると言う点で興味深い。もちろん、大地は小説だが、どのように彼女が中国を見ていたかはよくわかる。それは、後のルーズベルトの対中観につながっているようだ。

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