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ウリスト教

私自身はキリスト教徒ではないが、別にキリスト教徒に反感を持っていることもないし、宗教を持つ持たないはあくまで個人の自由だと思っている。日本は世界でもまれなほどキリスト教徒の少ない国で、在日外国人を除けば日本人でキリスト教徒は人口の1,2%くらいなものらしい。ところが、アジアアフリカ中南米など、西欧の植民地にされた国は例外なくキリスト教徒の数が多い。国の大半がキリスト教徒だという国も珍しくはないし、また明確な植民地化ではなくとも、中国にもキリスト教徒は多いが、共産党に弾圧され、今はかなり減っているとは聞く。また、韓国は特に西欧の植民地になったわけでもないのにキリスト教が普及している。しかし、これもまた特別な理由があるとはいう。

とにかく、個々のキリスト教徒に対しては別になんとも思わないし信教の自由はもっともだが、宗教としてのキリスト教は嫌いだし、同類のユダヤ教やイスラム教も嫌いだ。つまり、一神教は嫌いと言うことだが、単に好き嫌いではなくその存在が忌まわしいと思っている。これについては以前も書いたことがあるが、後述する。

さて、次のような記事が目を引いた。

日本のカトリック、100年ぶりの反省…6.25と分断は日本の侵略のせい

これを見て思い出したのが、以前にもこんなことがあった。

【韓国】 日本キリスト教の指導者ら、訪韓して日帝侵略蛮行を土下座謝罪する[02/23]

そこで、ネットで調べて、日本のキリスト教団体が加入していると思われる統合組織らしいところに電話をして聞いてみたが日本のキリスト教全体がそんな事をしているわけではないし、実際にそのようなことがあるのは知らなかった、とのこと。

韓国にはキリスト教がかなり浸透しているが、それがかなり歪んだ形で新興宗教のような形になって広まっている、言い換えればキリスト教を利用したカルト宗教でしかないとはよく言われていて、

ローマ法王が韓国民にお説教? 「倫理的に生まれ変わるよう望む」

というような有様だ。ウリスト教とはよく言われているが、彼らが組織を使って反日プロパガンダをしているのはもう隠しようがないだろう。

韓国だけではなく、キリスト教やそれに関係するイスラム教、ユダヤ教などもプロパガンダに実によく利用される。キリスト教では神の言葉は絶対であり、決して疑ってはならず神の言葉に逆らえば神罰が下り地獄に落ちることになっている。これは為政者にとっては実に都合が良く、王権神授説では王は神よりその役割とそれに伴う力を授かったと言うことにして人民を支配した。過去の絶対王権はそのように確立したが、共産主義は神を認めないことにしてキリスト教を弾圧した。かつてロシア正教として一大勢力を築いていたソ連でもそれは変わらなかった、今プーチンは積極的にロシア正教を利用している。

中国もかつてキリスト教を弾圧したが、今は共産党の下部組織としてキリスト教団が存在し、きちんと中国共産党のプロパガンダ組織として機能している。

まず、キリスト教徒は、人間が神の奴隷であり、神に逆らえば罰を受けるのだから、人民を支配する独裁政権としてこれほど便利な組織はない。さすがに現代の西欧などではそのようなことはないが、国民はキリスト教から離れているわけではないし、米国などはキリスト教が政治を左右している。西欧がアジアアフリカ中南米などを侵略し植民地化する時、まず先兵として宣教師を送り込んだのは当然だろう。宣教師達にはそんな自覚は無かったかも知れないが、それが功を奏して神の力を持つ宗主国の王に植民地の人間達はひれ伏した。今もその地にキリスト教が圧倒的にシェアを保っているのは当然のことだ。

キリスト教の全てが悪いとは言わない。確かに絶望の底にいる貧民に希望を与えたろうし、命も助けたろう。チャリティーも悪いことではない。が、それに頼るようにしてしまえば、自力で向上する意識が失われる。なにしろ、困った時は神様が助けてくれるのだから、努力をしない自分のせいではないというわけだ。

実際、私は子供の頃からキリスト教とはほとんど無縁で育ったが、それでもキリスト教の司祭が例えばレ・ミゼラブルのミリエル司教のような人ばかりではなく、例えばマルキド・サドの悪徳の栄えや美徳の不幸に出てくるキリスト教者のほうが本当だろうと思っていた。ヨーロッパ中世の暗黒時代の事を少しでも知れば、当然だろう。それも最近こんなことを知ればなおさらだ。

カトリック教会の性的虐待事件

神の命令であれば神父様の言うことを聞くのは当然だ。

むろん、これもキリスト教に対する私の偏見もあるかもしれないし、繰り返すが個人でキリスト教を信仰している人をおとしめるつもりは全くない。が、神を疑ってはならないとの教義とは絶対に相容れない。

私は神道信徒でもないし、仏教徒でもないが、ただキリスト教を調べる一方これらの宗教にも関心は持ったし、浅くはあるが調べてみてもいる。その結果、神道は宗教とは言えない、すなわち自然との協調を神という形で象徴した儀式形態とでも言うべき存在。また仏教には神は存在せず、仏の言葉も疑いを以て聞くべし、大疑は大悟に通ず、すなわち理解できないなら信ずるなということだ。その方がよほど性に合う。

キリスト教でも神の言葉を奇跡などではなく疑いきって理解して信ずるならまた話も変わるが神の言葉に疑問を持つなという時点で、絶対に関わりたくないとは思う。当然ながらウリスト教を信ずる韓国人には無理な話だ。

冒頭にある、韓国に謝罪に行ったというウリスト教徒などは、韓国の言うことが事実かどうかを、根拠を調べて確認するなど出来ないのだろう。なにしろ神の言葉を伝えるウリスト教の神父様が言うのだから。ところで、ウリスト教の聖職者(性色者)の児童性虐待などはもうニュースにもならない当たり前のことらしい。





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コメント

多文化共生

私は中高をプロテスタント系で過ごしました。
中1の時に疑問に持ったのは、アダムとエバがエデン園で蛇に唆されて禁断の木の実を食した点ででした。
全能の神は万物の創造主であって、神に失敗はなく、禁断の木の実も蛇もまた全能の神による創造物でもある筈です。
この一見すると矛盾とも思える疑問の解に至ったのは10数年後の社会人になってからでした。
同じ疑問を国内外のクリスチャンに問うて未だに私が納得する解答を得た試しがありません。
要するにクリスチャンは言われるがままに信じているだけで、核心を得ていないと云えます。
私の得た解答に就いては次の機会に書く(ありゃ、何とも意地悪な!)事としますので、たかおじさん様もお考えになって下さい。
神道に対する解釈は仰る通りと思います。
また、仏教は本来は自分で答を得る事が出来る様に修行するものと考えています。
今、多文化共生なるフレーズが語られていますが、これは一神教下故に起きる事であって、多神教下にあっては元々多文化共生であり、日本で軽々とそれを口にするメディアは文化の何たるかすらも弁えていない事を露呈している事となります。
文化にはある一定レベルの規範が伴うものであって、規範も規律もない(主に特亜によくみられる自分勝手な)生活習慣は文化ではない点は強く訴えたく思います。又、文化圏にあっても規範を保てぬ外道は一定数いるのであって、それらを多文化共生の美名の下に妥協する事は誤りです。

Re: 多文化共生

おはようございます。私自身、キリスト教はおろか宗教一般、特に深く研究したわけでは無いので、もっともらしく書くのは気が引けたのですが、ただ普通なら持つであろう疑問が解けないというレベルの記事でした。しかし、

> 全能の神は万物の創造主であって、神に失敗はなく、禁断の木の実も蛇もまた全能の神による創造物でもある筈です。
> この一見すると矛盾とも思える疑問の解に至ったのは10数年後の社会人になってからでした。

神が絶対に正しく、絶対の力を持つ神が世界を作ったのなら、なぜ神に背く悪魔を創ったのかが最初の疑問でしたね。

> 同じ疑問を国内外のクリスチャンに問うて未だに私が納得する解答を得た試しがありません。
> 要するにクリスチャンは言われるがままに信じているだけで、核心を得ていないと云えます。

私自身はキリスト教とは無縁の環境で育ったので、現実にキリスト教徒とそのような形で接したことがありません。ただ、子供の頃近所の教会でクリスマスの時にお菓子をくれるので行ったことはありますが、お菓子に釣られていっただけです。ただ、その時神様がどうしたこうしたと優しいお兄さんが言っていたので、神様はいい人なんだと思った記憶があります。

> 私の得た解答に就いては次の機会に書く(ありゃ、何とも意地悪な!)事としますので、たかおじさん様もお考えになって下さい。

私なりに考えていますが、キリスト教の成り立ちで圧政に立ち向かうには圧制者よりも上の存在を作り出すしか無かったのだろうとは思っています。当時の宗教では、多神教で神様同士が戦っていましたから、それらの神様を全部無くして、絶対無二の存在を作り、その神の庇護を受ければ圧制者にも立ち向かえるとした、こんな所だと思います。元々はユダヤ教の一派ですが、当時のイスラエルは散々他からの攻撃、支配を受けていましたし、ユダヤ王自体が圧制者だったと思っていますしね。

> また、仏教は本来は自分で答を得る事が出来る様に修行するものと考えています。

はい、結局そうだと思っています.仏教は宗教ではないとの論もありますが、そうなると宗教とは何かの論にまでなりますので、概念的には宗教として扱うとして、仏教では仏が衆生を支配することはありません。神道もそうですが、自らを正すことで極楽に住むことが出来るとする点で、あくまで自分の責任であり、神にその責任を転嫁するキリスト教よりは説得力があります。

> 今、多文化共生なるフレーズが語られていますが、これは一神教下故に起きる事であって、多神教下にあっては元々多文化共生であり、日本で軽々とそれを口にするメディアは文化の何たるかすらも弁えていない事を露呈している事となります。

ま、他文化も良いのですが、文化の根幹には宗教があり、宗教によって異なる価値観を受け入れるとは、自らの依って立つ所を失う事です。ウリスト教徒を見ればよく分かります。

> それらを多文化共生の美名の下に妥協する事は誤りです。

全くその通りです。妥協で自らをおとしめるなど有ってはならないことです。

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