ジャングルブック

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子供の頃、キプリングの小説、ジャングルブックを読んだことがある。子供向けにアレンジされていたので、単なる狼に育てられた少年の冒険としか思っていなかった。似たような本で、ターザンも読んだと思うが、こちらは映画の印象が強すぎて、本についてはあまり記憶がない。

さて、今になって、おぼろげな記憶を基にして考えてみても、ジャングルブックとターザンでは、幼い頃に人間社会から切り離され動物の中で生きてきた主人公を採りあげながら、全く違う内容だったと改めて思った。ただし、ターザンはアメリカのSF作家として知られるバローズ(彼の作品はSFの古典としての地位を占めており、ずいぶん沢山読んだ)の作品であり、ジャングルブックに触発されたとのことだ。

ジャングルブックの主人公、モグリーは3歳の時、ターザンは確か1歳くらいの時に人間社会から切り離されそれぞれ狼、あるいは猿に育てられた事になっている。むろん、フィクションであり、それぞれが言葉を話す動物たちの中で成長して行く話だが、子供の頃はそれに全く違和感を感ずることなく夢中になって読んでいた。

言葉を話す動物はともかく、人間社会から切り離された人間の子供は実際には何人か発見されている。動物に育てられていた例が多く、他には、虐待によって幽閉されたまま育つなどの例もある。人間社会から切り離された年齢によって、人間社会に戻れる可能性が大きく変わるようだ。しかし、いずれにせよ、完全に人間社会に戻った例は無いとされている。

先のエントリー「中国に対する備え」でも書いたが、人間の基本的知能は類人猿とさほど差がない。基本的知能とは、本来持っている知能のことであって、今私たちが知能と呼んでいる能力の大半は教育によって得た物だ。

もっとも幼い頃、すなわち赤ん坊の内に人間社会から切り離された実在の子供の例では、その後、5,6歳になってから人間社会に戻されても、言葉を覚えるなどはおろか、立って歩くことも出来ないまま死んでしまい、言葉を覚え何とか自分の周りを記憶し始めてから隔絶された子供は、覚えているいくつかの単語以上は殆どしゃべらないまま成人したとしても一生を施設で過ごし、そして全く周囲ととけ込むことなく早死にする。

これで分かることは、人間本来の知能は、自ら高まることはなくあくまで外部からの刺激に反応してその能力を作り出してゆくから高まるのであって、それがなければ知能レベルは他の動物と大差がないと言うことになる。

ただ、人間が他の動物と違うのは、他からの刺激で自ら高まる能力を持っているかいないかということだ。それ以外は少なくとも大型類人猿と変わらないし、短期記憶や瞬間的な識別では大型類人猿の方が勝っている。

念のため繰り返すが、人間の脳は、幼い内に外から適切な刺激を加えないと自ら発達することがないのだ。

もちろん、これは「中国に対する備え」の補足の意味で書いているのだが、ちょっと違うのではないか、との反論が聞こえそうだ。中国人も言葉を話すし、社会生活を営んでいるし、現代テクノロジーを使っているのだから、彼等が幼少時に刺激を受けず、自ら知能を発達させる能力が失われているなどあり得ないと反論があるだろう。

いかにもその通りなのだが、「中国に対する備え」でも書いたとおり、彼等が発達を阻害されたのは好奇心と言うことだ。

好奇心とは損得に関わりなく真実を知りたいとする心であり、彼等の社会で真実は生きるために役立たず、教えられた嘘をそのまま信ずる方が生きやすいなら真実を知る必要がないと彼等は考える。実際は、好奇心が有れば、損得とは無関係に真実を知りたいと思うはずであり、真実よりも妥協した方が得と思えば妥協する。嘘を信ずるわけではない。

さて、脳の働き、発達と言っても実は現代科学でも分からないことが多いし、私は専門家ではない。だから、私が知り得た知識を基に話を進めるが、もし明らかな間違いがあればご指摘頂きたい。

それをふまえて、当然ながら生まれついての能力の差はあるだろう。同じ刺激を受けてよりよく発達出来るか、そこそこ発達出来るか、ほんの少ししか発達出来ないかは生まれて持った脳の基本的な質だろう。その意味で、人間は確かに持って生まれた基本的な質は大型類人猿よりも高いのだろうが、いかんせん刺激を受けなければ宝の持ち腐れと言うことになる。

また、発達させるにしても適切な刺激がなければ適切な発達は出来ない。

人間の脳は生まれてから死ぬまで脳細胞の数が増えることはないという。しかし生まれたばかりの赤ん坊の脳は数百グラムであり、成人の脳は、平均男性で1400グラムだというから、脳細胞の数が増えないならどうして脳の重さがこんなに増えるのか。脳細胞同士をつなぐ神経細胞が増えること、それに応じて必要とされる栄養供給組織、脂肪などが増えるためだ。生まれたての赤ん坊の脳は脳細胞がそれぞれバラバラで、存在はするが働いていない。が、刺激を受けることで脳細胞はそれぞれ繊維をのばし、シナプスを介して他の脳細胞とつながる。一つの脳細胞が数千から一万の繊維をのばすこともあり、それらの繊維が互いに脳細胞を結びつけることにより複雑なネットワークが出来てゆく。これで、脳細胞が機能するようになるわけだが、ただ、無制限に繊維が増えるのではなく、成長期のある時期で繊維の増加は停まり、それ以上にそれまでに作り上げた繊維網が急速に消失し、本当に必要なネットワークが増強されてゆくということだ。これを臨界期といい、人間では8歳頃だが、それ以前に記憶して重要な物を基本にそれ以降の知識を増やし整理してゆくように脳の機能が変わる。

この臨界期以前に神経繊維の発達のバランスが取れていないと、それ以後の知識の蓄積や理解、応用が不可能になると言うことだ。

言語は誰もが一番最初に発達させる知識だろう。自分でも記憶のない乳幼児の頃に意味も分からないまま周囲の人間の発する音声を真似し、次第にそれが意味と結びついてゆく。そうやって覚えた言語は、全くその使用法を意識することもなく必要に応じて自動的にわき出してくる。母国語は誰にとってもそんな物であり、努力をして覚えた記憶など誰にもない。が、臨界期、すなわち8歳を過ぎてから学ぶ外国語は、母国語を超えることはない。どんなに上手くなっても外国語でしかない。

私が昔ドイツ語を習った人に長年日本に住んでいるドイツ人が居た。当時、彼は私より長く日本語を話していたはずだが、私の方が自然な発音で自然な文法で日本語を話すことが出来るのはなぜだろうと不思議に思ったものだ。ドナルド・キーン氏は私が日本語を話し始める前から日本語を話していたはずだし、日本文学や日本語についての造詣は私が到底想像も付かないレベルだ。が、明らかに彼の日本語は私の日本語ほど流ちょうではない。言うまでもないが、キーン氏の日本語は、私の英語の100倍以上上手いことはもちろんだ。

話が方々に飛んでいるが、結論を言うと、中国人の人権、正義、権利、平等等々に対する真実を知ろうとする好奇心は、幼少時にそれが発達する機会を奪われてしまったため、それ以後、それを獲得する機会は永遠に失われたと言うことだ。

彼等も、平和、平等、友好を口にする。が、それが私たちのそれと違うのは、私が絶対に母国語として中国語を話せるようにならず、彼等が母国語として日本語を話すようにはならないことを想像すればよいのかも知れない。互いに、母国語ではない相手の言語は真似でしかないと言うことだ。
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コメント

日本国内でさえも

関西へ来て7年目になりますが、私は一切関西弁は使いません。別に関西弁を嫌悪しているのではなく、また横浜の話し言葉は東京以上に標準とされる日本語に近い事もあって関西でも誤解なく通じるせいもあります。
関西の人は、私が「直す」と云えば「修理する」と、関西人が「直す」と云えば「しまう」と自然に解します。
同じ単語に対して異なる概念があり、それを使い分けられるのは、同じ言語の標準と方言の差ゆえでしょうか。
しかし、異なる言語にあっては、訳語が適切であるかは別として、単語自体が異なる言語間で一対一の対応をするとは限りません。
英語でのmaybeもperhapsもprobablyも日本語では「多分」となり、希望的だとか可能性の概念は文脈任せとなります。
英語でのweは日本語では「私達」となりますが、タガログ語ではnatinとnamin(聞き手を含まぬ私達)と分ける必要があります。
独語でも親しさで二人称が変わりますよね。
斯様に文化を反映した面もあってか、native speakerによる各言語には深みがあります。
中国語でも調理関係が細分化されているのは有名ですが、同じ漢字とはいえ日本人には境目辺りの判別は難しく、その文化に浸って過ごすnativeには敵いません。
端的な例としては、日本語のオノマトベ(擬音語)があり、native Japanese speaker には、喩え初めて聞くオノマトベであっても理解出来るそうです。例えば、「ぬぽっ」と云えばぬめり感を伴って抜ける感じだと。
他方でcelebrateとcerebrateは聞き分けすら出来ません。そもそも片仮名表記が…。
左様に幼児期あるいは嬰児期から浸される様々な環境条件の影響は計り知れません。
そんな中で最後の鍵となるのは、違いへの許容性となります。
それを否定する教育が為されたり、宗教上の教義として植え付けられたならば、融和の手立てはありません。

日本国内でさえも

>2014-08-28 21:43 | あづまもぐら様

私は会社つとめをしていた頃、仕事で多くの他国の人間達と接触し、言葉の壁は当然として、物の考え方、感覚の違いを実感しとまどった経験があります。未だに基本的に考え方、価値観にはかなりの違いがあると思っていますが、それでも彼等には当方を理解しようとする姿勢があるのは分かりました。

むろん、私の方も同じように努め、結構良い関係を築いていられたと思っています。また、私が仕事で直接接した相手は、外国人との折衝に慣れた人々ばかりであり、最初から外国人とは感覚が違うことを認識し、どのようにすればスムースに交渉出来るかを知っている人たちが主だったことも、良い関係を築けた理由でしょう。

私は仕事でも私生活でも中国韓国人と密接に付き合ったことは有りません。仕事も彼等とは殆ど関係のない分野でした。ただ、密接とは言えないまでも他社に中国人、韓国人が居て、それなりに付き合ったことはあり、別に違和感を特に感じたことはありません。

父は、それほど差別主義者ではなかったと思っていますが、朝鮮人だけは許せないといつも言っていました。それなりの経験があったのでしょうが、身近にいる在日の人々に特に反感を持っていたようには見えませんでした。

特に問題がない状況では、それらの人々も普通の付き合いが出来るのでしょう。が、基本的に育った環境が違い、生育のために受けた刺激が違う相手が、何か問題が起きたとき重大な問題を引き起こすのではないかと思わざるを得ません。

したがって、

>そんな中で最後の鍵となるのは、違いへの許容性となります。

根本的な価値観、思考形式が違うことを前提として、受け入れないとしても許容しあうこともまた価値観、思考形式による物であり、一般の人間は国や民族が違っても、最大公約数の価値観、思考形式によるその妥協、許容が出来るのではないでしょうか。

が、中国韓国などの姿勢を見ると、

>それを否定する教育が為されたり、宗教上の教義として植え付けられたならば、融和の手立てはありません。

まさに、最大公約数の思考、価値観が共有出来ないのだとつくづく思わざるを得ません。それはあたかも一切の妥協を受け付けないイスラム国の姿勢と同じです絶対紳の命ずることが絶対であり、それに従わない者は敵だとの決めつけです。

イスラム国とは一切妥協はあり得ません。力で制圧する以外彼等の脅威を取り除く方法はないでしょうね。欧米はそれを良く知っているようです。

が、中国韓国がイスラム国と同じなのだということを、欧米は本当に知らないようです。

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