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政策としての反日

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今日も前ネタから。

先日脱原発を訴え750万近くの署名を集めた大江健三郎氏達のグループのことを伝えたb、彼らの問題は原発そのもの、事故に対する知識の普及を全くせず、なぜ原発が駄目なのかとの説明無しに、単なる原発は怖い、危険だとの恐怖感を煽った結果の署名集めでしかないからだ。民主主義の基本は多数決だが、そのためにはすべての参加者が公平で広汎な事実を知らされる必要がある。またそれらの事実を自分なりに判断できる能力が無ければならない。実際には、国民すべてが均しくそのような能力を備えるなど不可能なので、そこへ恐怖を煽ったり、ばら撒きで阿るポピュリズムが入り込む。

事実を知る知識の普及無しにただ集めた署名はその意味で極めて危険であり、不公平であると言える。ナチスが政権を取ったのは明らかに国民の支持の結果であり、それはヒトラーが国民に、国際社会への憎しみやユダヤ人への憎悪を煽ったからだ。

ナチス政権もまた民主主義の負の面が現れた結果だが、そのような例は近年の日本でもアメリカでもヨーロッパでも頻繁に見られるし、隣の妄想半島は民主主義国家をまねただけの風評国家だ。呪術国家と言っていい。

それはともかく、先の脱原発を訴える署名が危険で無意味であるように(署名活動自体は全く問題ではない)かつて市民団体から提案されていた国民投票による原発の可不可を決める法案が廃案になった。まずは一安心だ。このような法案は、上記の署名運動同様、民主主義の根幹を揺るがしかねない暴論だからだ。妄想半島が国民の圧力に屈して高校教育から進化論を除いたような物だ。それが国民の意思を尊重した民主主義の結果だと思っているようなら、まさに韓国は呪術国家であり、民主主義国家ではない。政策はサイコロでも振って決めた方が手間が省ける。

赤文字は引用

東京の原発住民投票条例案、都議会委が否決 自公が反対

 採決では、委員長をのぞく委員14人のうち、知事与党の自民、公明の7人と、自主投票となった民主の1人が反対した。意見陳述で自民は「国がエネルギー政策を構えることが重要で、都民投票すること自体、不適当」、公明は「是非を二者択一する投票では多様な都民の意思が正しく反映されない」と述べた。
 
 これは当然の否決理由であり、民主が都民の意思を反映する場所が必要だというのは代議員を選んだ事により達成されている。しかし、民主政権を選んだことが大失敗だったことも国民は学んだ。都民として意見を言うのはよい。が、それをふまえて政策を決定するのが議会だ。議会の決定を都民が勝手にひっくり返すのであれば、代議員制は機能しない。
 
 国民投票にも言えるが、もし直接投票で何かを決する場合は時間をかけ、なぜ決定しなければならないのかを専門家からの説明やさまざまな機会を設けての教育などをし、十分に周知徹底させた後に行うべき事だ。単なる不安を煽って浮き足立ったお花畑を駆り立てるのでは、ナチスと変わらない。

下記は本題だが、内容は中国の歴史教科書の解説であり、このような教育をすれば当然中国人は激しい日本憎悪を持つだろう。これは中国の国策であり、歴史という科学を学ぶのではなく、明かな政治目的の思想教育であり、しかもこれに対する反論は国家反逆として弾圧するのだから、この教育の是非を問うのは無駄だろう。したがって、この記事の内容については特に論評もしないし、中身の正否も論評しない。ただ、URLを紹介するに留めるので、各自巻末にある内容をごらんになって、各自で判断していただきたい。

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中国人の反日感情の源泉(『中国歴史』(全四冊、中学歴史教科書)



中国人の反日感情の源泉―中国人が学んだ「抗日戦争史」(1)

盧溝橋事件から南京大虐殺まで―中国人が学んだ「抗日戦争史」(2)



華僑や海外からの援助―中国人が学んだ「抗日戦争史」(3)


日本の傀儡政権と残虐な統治、略奪―中国人が学んだ「抗日戦争史」(4)

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【中国BBS】なぜ中国では抗日戦争ドラマが増えているのか?

■「中国BBS」に関する他の記事 - サーチナ・ハイライト
  中国では連日、多くのテレビ局で抗日戦争に関するドラマが放送されているが、スレ主はここ最近、ますます増えてきていると感じているようだ。その理由について質問したスレ主に対し、多く寄せられたのが「日本を悪く描き、民衆を洗脳して、民族主義者を多く輩出するため」という、洗脳するためという回答だった。

  
 中国からの公式報道を見ると、あくまで日中関係を損なったのは一部の極右分子であり、国民は彼らに洗脳されているとの主張で一貫している。要するに日本政府、日本国、および一般の日本人は敵ではないと言いたいわけだ。が、それと同時に、憎々しい日本兵が雄々しい中国兵に倒される抗日ドラマが増えている。
 
 これで、悪いのは過去の軍国主義者であり、現在の国民は悪くないなどと本当に言える物か。映像で一方的に日本兵の残虐さを演出し見せつけることで、本当の日本を知らず本当の日本人に接したことのない情報弱者である中国人は、漠然と日本という国、日本人に対する憎しみを募らせる。これは多数あるブログなどでも必ず俺は日本人は嫌いだが、憎んでいるが、日本人は反省しないなどなどの言葉が書かれているのでも判る。中国は一貫して国民に、日本人憎悪を吹き込んでいる。そして対日宣伝では、一部の極右分子が日中関係を損なっていると言っているわけだ。もっとも、売国日本中国駐在大使を取りこんで、更にそれを庇う民主政権まで取りこんでいるのだから口先だけの極右分子悪者論は全くの嘘だ。
 
 未だにあの売国大使は更迭もされていない。政権が売国奴集団だから当然だろうが。

「中国は経済発展したが貧富の差が大きく、腐敗や社会矛盾が激しくなっている。だから日本を利用して憎しみの感情を煽り、民衆の注意をそらしているだけだ。憎しみを増し加えることの目的はただ1つ、安定だ」
「自国人を妄想させるためだ。自国の軍隊がいかにすごいかを見せつけている。だが本当は台湾に行った軍隊のほうがすごかった。わが国は彼らの功績を奪っただけ」


国内での政府に対する不満を外部に敵を作ってそらせるのは特亜の得意とするところで、国民にもそれは判りつつあるようだ。また、国民党軍が凄かったなどもむろん嘘で、実際は台湾に逃げて台湾人の憎悪の的になったのは周知の事実だ。

しかし、下記に出てくるように最近とみにネットの規制を激しくしている中国でこのようなブログが公開されるのは、明らかに不思議としか思えない。とはいえ、いずれ多くの中国人が国外に出れば自由にネットに接続でき、また実際に他国を見てくると、中国政府の嘘には幾ら難でも気がつく。それくらいなら、この程度のリークは意図的にしていると考えることも出来るだろう。

それに、テレビの抗日ドラマは国民に対する洗脳だが、世界各国にも南京映画などで反日憎悪をプロパガンダしている。

【中国BBS】中国人はなぜ反日になる? 教科書か抗日ドラマか

■「中国BBS」に関する他の記事 - サーチナ・ハイライト
  スレ主は「全国が同じ教科書を使っているが、どの教科書に日本を憎むよう教えているものがあるだろうか。ある人は中国の教科書は反日を教えているというが、証拠はあるのだろうか?」と問いかけている。

  
中国人にも、なぜ中国人が日本人を憎むのかを考えているケースが最近は散見される。さきに挙げたようにネットを規制しても情報を規制しきれないことから中共がガス抜きをしているとも思える。たしかに上の教科書を見ても、日本人を憎めと言う言葉はないが、あのような記述をすればいかに日本が一方的に中国を侵略したかとの感情を惹起させるには充分だろう。そして、

 また、教科書では教えていないが先生が教えるという意見もあった。

・「個人的には、歴史の教科書などで少し触れてはいるが、問題は教師がそれにいろいろなことを加えて話すからだと思う」
・「教科書では教えていない。でも先生は反日を教えて良い」


嘘か本当か、中国に於ける教育綱領には教室に入る前に教師は厳しい表情を作り、感情的に生徒に対し日本憎悪を教え込まなければならないとされている。このようなブログコメントを見ていると、それは単なる噂ではないのだろうと思われる。なにしろ、教師は政府に何一つさからうことの出来ない国なのであり、日本の左翼日教組など到底同じ教師などとは言えない代物だからだ。

 そのほかの意見には、「われわれの教科書はこの点についてどう考えるべきかを教えるが、われわれに考えさせることはしない。特に歴史の教科書」と、教科書にも問題があるというコメントや、「反日教育をしていなければ99%の中国人は反日になっていないと思う」、「海外で育った華人で強烈な反日感情を持った人を見たことがない」という意見もあった。(編集担当:畠山栄)
 
 教科書の内容を検証することは中国人にはできない。何しろ情報がないのだ。したがって、子供時代から洗脳されれば当然感情的に日本を憎むようになる。日本を知らず、日本人を知らず、それでも日本を憎むようになる。それが中国の国策だからだ。日本に対する国民の憎悪が、中国に於ける国家安全保障の根幹であり、軍事増強の口実になる。
 
 東アジア共同体や、日米中等三角形とか中国詣でをする売国奴(最近配偶者に三行半を突きつけられ、脂汗をかいているようだが)、そして上記の売国大使、売国政権を取りこむ為には国家としての日本を取りこむことが中国の国家百年の計であり、そのためには仮借無く日本を攻撃し続けなければならない。当然、感情的な日本憎悪が必要になるわけだ。
  
【中国BBS】中国人が反日なのはやっぱり抗日ドラマのせい?

 スレ主は「テレビをつけると必ず中国共産党軍が日本軍に打ち勝つドラマがやっている。だから俺の母親は“日本人が一番悪い”と言っている。中国人が日本人を憎む最大の理由はこうしたプロパガンダだ」と述べている。これに対してスレ主と同様の意見が寄せられた。
 
 「小さいころから抗日ドラマを見て、政治と歴史の授業を受ければ憎しみが刷り込まれていくさ」
・「正常なことだ。国には仮想敵国が必要なのだ。日本は歴史にしても経済にしてもちょうどピッタリの仮想敵国。何もしなくても日中関係は良くないし」
・「オレの母親も抗日ドラマが好きなんだよね。子どもは何も分からないから、親に倣って日本を憎むようになる」


 家庭で子供に対する日本憎悪を植え付けるには、母親を洗脳するに限る。日本でも韓流にはまるのは中年女性であり、それが子供に与える影響は大きい。

  そのほかの意見には「小学校の時は日本が超憎かった。中学に入って普通になり、高校では何も感じなくなり、大学に入ったら日本が好きになった。どうしてだろうね」というコメントや「どの国でも戦争で苦しむのはいつでも庶民。だから戦争はしてほしくない」という意見もあった。(編集担当:畠山栄
  
  とうぜん戦争は誰も望まない。国策で日本憎悪を国民に植え付けている国が無くなれば、戦争の危険は激減する。大人になって自分なりに日本が好きになる中国人が本当にいるならそれはよいことだが、そもそもこのブログ自身が全く信用できないのだから、そう言うこともあるかも知れないと言うだけのことだ。また、実際に洗脳から醒めている中国人も多数居るのは事実だ。

【中国ブログ】日本のポルノ文化がアジア人女性の安全を脅かす

性犯罪大国、売春婦輸出大国が何を抜かすか。これで充分だろう。

筆者は、日本のポルノ文化が米国に輸出されるようになって、米国人男性の日本人女性に対するイメージは変化しつつも、アジア人女性のイメージは日本人女性のイメージから形成されていると述べる。

ポルノ文化ではアメリカの暴力的ポルノなどと日本のポルノを比較することはできない。日本ポルノがどうこう言う前に、アメリカではすさまじい性暴力が吹き荒れ、それが社会問題になっている。要するにアメリカの性犯罪が近年増えてきたアジア人に向いているだけであり、それをアジアの性犯罪大国の中国人がとやかく言うことではないだろう。

日本ポルノと言っても、混浴を日本の堕落した性文化だと考えるような頭で何を論じても戯言に過ぎない。

  米国では日本のポルノ文化の影響で性的暴行事件が発生したことがあるが、筆者は、「日本人と中国人、韓国人を区別できない米国人によって、中韓などほかのアジアの女性たちが性的暴行の被害者となっている」と主張した。
  
 思いこめば、どんな理由でもつく。中国や韓国が世界で突出した売春婦輸出国だから性犯罪の被害に遭うという発想は無いらしい。なんでもかんでも日本が悪い。確かに、抗日テレビの効果はあるようだ。

<中華ボイス>中国が恥ずかしい“史上初”=「co.jp」への接続を遮断
―中国有名ブロガー

17日、中国の有名ブロガーは接続トラブルについて、「さすが中国だな、co.jpのアクセスを不可にして多くの日本企業との接続を遮断した。国別コードのドメインが入ったアドレスへの接続が遮断されるなど、インターネット史上初のことだ」と皮肉交じりに意見を自身のマイクロブログに掲載した。(翻訳・編集/内山)

中国がネットを強く規制し、天安門や文革などの検索が出来なかったり、Wikiでさまざまな記事が表示できないのは良く知られている。日本のドメイン検索を規制したのは、最近の日本からの記事がよほど中国人の洗脳を解く材料になっているとの警戒感があるのではないか。まあ、このような国が日本について何を報道しようと、単なる嘘八百のプロパガンダであることを、今回も自ら証明しただけだろう。

【中国ブログ】いつ、日本を超せる……3年? 5年? 遠い将来?

  1973年の第一次オイルショックの際、中国など多くの国の学者は「日本の奇跡は終わった」と表明した。しかし日本は2度のオイルショック、80年代のドルショックを乗り越えた。それどころか、80年代から90年代にかけての連続8年間、日本の経済競争力は世界第1位と評価された。

  「鷹目」さんによると、現在の金融危機で日本が受けた傷は大きく、過度の外需依存から脱却して内需を拡大させることなど重大な課題は多いが「この一時期の調整局面が過ぎれば、日本はこれまで以上の実力と競争力を得る」と考えられる。

  同文章に併設されたアンケートでは、「中国が日本を超すまでの時間」を「3年間」と回答した人は12.48%、「5年間」とした人は8.78%。一方、「長い年月がかかる」とした人は78.74%だ。(編集担当:如月隼人)
  
 中国が日本を超すとは具体的に何を指しているのか。隣の妄想半島でもとにかく日本を超すと言うのが二言目に出てくるが、人口や国土面積を比べても意味はない。また、経済力もある面国のサイズが大きければ潜在力はあるだろう。軍事国家であれば軍事力で日本を凌駕するのも当然だろうが、日本をどうすれば超えると彼らは感ずるのだろうか。
 
 一番わかりやすいのは、文化力、民度だろう。それなら永久に中国が日本を超えるときなど来ない。そもそもそれで比較すること自体が意味がないことすら理解できないうちは、中国が日本を超えるなどあり得ないし、国を捨てて憎いはずの日本に大量に流れ込む状態は続くだろう。国を捨てる国民が増え続ける国は、衰退しているのだ。いずれ崩壊するまで衰退し続ける。

上記に引用されているURLの記事を読む場合は下記の「続きを読む」をクリックしてください。但し、内容確認以外なら、敢えて読む必要はありません
以下は参照用の資料ですので、確認をされる以外はあえて読む必要はありません。



中国人の反日感情の源泉(『中国歴史』(全四冊、中学歴史教科書)



中国人の反日感情の源泉―中国人が学んだ「抗日戦争史」(1)

【コラム】 2011/08/17(水) 16:22



  8月15日、日本は66回目の終戦の日を迎えました。私は10年の中国生活で何千人もの中国の若者と出会うことができました。そして10年ぶりに日本に帰ってみて……過去の戦争責任に対する思いについては、日本人と中国人ではその温度差に乖離があるのですが、それが「益々大きくなっている」というふうに感じました。

  以前、楽天広場ブログ上で、私は中国の歴史教科書の日本語訳を掲載しました(現在、当ブログは閉鎖)が、今回、日本の多くの方に「中国人が学ぶ“抗日戦争史”」を理解していただこうと思い、ここに再度掲載させていただくことにしました。

  ここでご紹介する全文は人民教育出版社の『中国歴史』(全四冊、中学歴史教科書)の第5章の日本語訳です。

  これをご覧になって、中国に敵対心や警戒心を抱くのではなく、中国人に何故あそこまで“反日感情”が根付いているのかを考えていただき、中国ビジネスにおいても役立てていただければと思っています。

  なお、私が翻訳した教科書は95年出版のものなので、現在の30代で社会でバリバリ働いている中国の方達がどのような歴史教育をされてきたかがご理解いただけると思います。

1.つくられた“九一八事変”
  1929年、資本主義世界が深刻な経済危機に瀕していた時、日本帝国主義はこの経済危機を脱するために中国侵略への歩調を強めていった。東北に進駐していた日本関東軍は1931年9月18日夜、南満州鉄道の柳条湖付近の線路を爆破し、これを中国軍のしわざとした。そして彼等はこれを理由に、東北(日本のいう満州)における軍根拠地であった瀋陽を占領したのである。この一連の事件を”九・一八”事変という。

  東北防衛軍司令の張学良は蒋介石の命令を受けて、部隊に抵抗をさせなかった。そして東北軍10万人余りは関内(山海関以南、以西)に撤退し、日本軍は無人の境に入るが如く侵入した。

  半年も経たないうちに、東北三省100万平方キロメートルの美しき大地は全て敵の手に渡ってしまった。東北3000万人の同胞は日本軍の監視のもと、屈辱的な圧力を受けた。

  東北陥落後、東北人民は郷を離れ、流浪の旅に出た。当時流行した『松花江上』という歌は彼等に故郷を思い起こさせた。

  ”我の家は東北松花江の上、そこには森林や炭鉱や一面に広がる大豆やコーリャンがある。我の家は東北松花江の上、そこには我が同胞がいる。そして老いた老人達がいる。九一八、九一八、ここから悲惨な日々が始まった。離れた我が郷には無尽の宝を放棄してきた。流浪!流浪!一日中、関内をさまよい続ける。我が愛しい故郷は何時奪回できるのだろうか?何年何月に奪回できるんだ?我が無尽の宝は何時奪回できるのだろうか?爺や、婆や!いつ、あなた達と一緒に暮らせるのだろうか?”

2.“一二八事変”勃発
  侵略拡大のため、1932年1月28日深夜、日本軍は上海へ突如侵攻を始めた。上海を防衛していた十九路軍は、愛国戦士の蔡廷カイ、蒋光ダイの指揮の 下、蒋介石の不抵抗命令を無視して抗戦した。これを”一・二八”事変(日本のいう第一次上海事変)という。彼等は日本軍の進攻を何度か退け、日本軍の作戦リーダーを三度も交代させた。

  しかし、国民政府の妨害は、十九路軍の抗戦活動を破壊し、援軍の派遣も拒み、戦火は広がり続けた。とうとう弾が尽きた十九路軍は撤退を余儀なくされた。同年、国民政府と日本は屈辱的な≪淞滬停戦協定≫を結ばされ、中国軍の上海からの撤退と日本軍の上海への駐留を認めさせられた。中国人民の主権はここに再び売り出されてしまったのである。

3.“偽”満州国傀儡政権の樹立
  1932年、日本は既に退位していた清朝末代の皇帝溥儀を担ぎ上げ、長春に”偽”満州国傀儡政権を樹立し、東北を中国から分割しようとした。東北三省は日本帝国主義の植民地として陥落し、東北人民は屈辱的な亡国奴隷の生活を強いられた。

  1931年9月22日、関東軍参謀部は≪満蒙問題解決法案≫を制定し、”宣統帝(溥儀)を以って元首とし、東北四省と蒙古を含む領土に我が国を支持する新政権を築き、満蒙各民族の王道楽土とする”、”国防と外交について、新政権は日本帝国にその掌握を委ね、交通・通信など主要部分の管理は日本が行う”とうたった。

  それと併行して、関東軍は溥儀を天津から秘密裏に旅順へと移送し、1932年1月、関東軍代理司令板垣征四郎は旅順へ溥儀を訪ねた。溥儀は”新国家”の元首となることに同意し、王政復古と皇帝の称号の存続を要求した。2月、板垣は再度、溥儀と面会し、溥儀を満州国”執政”として迎えることを伝えたが、溥儀は王政復古に固執した。板垣は溥儀が関東軍に服従しない態度を見せたことに対して、威嚇しながら「軍部の要求は変更できない。もし、受け入れられないのであれば、敵対する態度として見做し、敵に対する方法でお応えする以外にない」と言った。溥儀はそれを聞いて、恐怖のあまりに何も言い出せなくなったが、最後には仕方なく「一年の暫定期間、執政を行い、もし帝位が復活できなければ、即時執政も退く」と答えた。板垣はそれに同意し、3月9日、溥儀は”偽”満州国執政に就任したのである。

4.“塘沽協定”締結
  1933年初め、日本は熱河省を侵攻し、国民政府軍隊はまたもや戦わずして撤退した。日本軍は熱河を占領した後、勢いに乗じて関内に(山海関を越えて)攻め込んだ。そして河北省東部を占領し、北平(現在の北京)や天津をも脅かした。国民政府は妥協と投降を繰り返し、日本と売国条約ともいえる≪塘沽協定≫を結んだ。これにより、河北東部を非武装地区として線引きし、国民政府軍隊はここからの撤退を認めたのである。ここから、日本の華北侵略の道が開かれたのである。

5.全国抗日求亡運動の隆起
  “九・一八”事変後、全国の人民は蒋介石の不抵抗政策に反旗を翻し、政府に内戦の停戦と日本の侵略に対する抵抗を要求した。こうして抗日救亡運動は急速に高まっていった。

  東北人民とまだ撤退していなかった東北部隊は自然に抗日義勇軍を組織し、日本軍の侵略に抵抗した。その中の有名な一つに愛国領袖の馬占山が率いる部隊があった。中国共産党から派遣された楊靖宇と趙一曼などは東北のゲリラ隊に参加し、抗日ゲリラ戦を展開した。

  各地の労働者は抗日救亡運動に次々と参加し、瀋陽の兵器工場では日本軍のために生産活動を行うことを労働者達が拒絶した。上海の埠頭では日本製品の運送を拒絶する労働者もいた。また、各地の学生は南京に集結を募り、政府へ抗日出兵を要求した。

  1931年12月、北平(今の北京)、天津、武漢、広州、上海などの学生3万人以上が南京連合ツアーを組み、政府に抗日出兵を要求した。国民政府は軍を派してこれを鎮圧し、学生グループは珍珠橋に到着した時、軍警に銃口を向けられ、30人以上が撃ち殺され、100人以上が負傷し、100人以上が逮捕された。これを”珍珠橋惨案”とよぶ。惨案の発生後、全国人民は次々と政府の学生運動鎮圧に抗議し、不抵抗政策に反対した。

  “一・二八”事変後、各界の人民は十九路軍の抗戦を熱烈に支援し、宋慶齢、何香凝らは自ら前線を慰問し、労働者や学生を支えた。また、全国各地の人民は次々と義捐活動を行い、前線を支援した。

  宋慶齢、何香凝は前線に行って十九路軍戦士を慰問した。彼女達は戦士が凍えるような寒さの中を一着の服のみで抗日活動を行っていることに感動し、戻ってから綿ジャケットの寄付活動を行い、五日内に多くの人が3万もの真新しい綿ジャケット上下を作り上げ、前線に送り、官兵の心を温めた。また、何香凝は家の 門に「この度は熱き支援を頂戴致しました」と貼り紙をし、これを見た上海人民は引き続きお金や物を寄付した。この後で、何香凝は自ら部隊に前線へ奔走し、車一杯の慰労品と救援物資を前線の戦士へ届け、戦士は元気付けられた。

  宋慶齢は傷付いた兵士の治療が困難なのを見て、何香凝等とともに資金を投じて上海交通大学の部屋にて”国民傷兵医院”を開き、宋慶齢も度々医院に傷付いた兵士を見舞いに行った。

6.察哈爾民衆の抗日同盟軍
  日本帝国主義は一歩一歩侵略をすすめ、国民政府は引き続きそれに妥協し撤退を繰り返していた。国民党内では愛国将軍の馮玉祥などの不満が起こった。1933年、馮玉祥は共産党員の吉鴻昌などと察哈爾(今の内蒙古の一部)民衆抗日同盟軍を組織した。彼等は抗戦に立ち上がり、多倫(察哈爾省の重要地)など失った土地を奪回し、日本軍を察哈爾省から追い出した。蒋介石は同盟軍の抗日活動を破壊せんとし、日本傀儡軍と国民党軍の攻撃に挟まれ、弾も尽きた同盟軍は敗戦を認めるに至った。

  馮玉祥(1882~1948年)、安徽省巣県人、元直隷派北洋軍閥。1924年に北京で政変を起こし、部隊を国民軍と改称。“九一八”事変後は蒋介石の不抵抗政策に反対し、内戦停戦を主張、共産党と協力し抗日にあたった。1933年、抗日同盟軍の失敗後、馮玉祥は張家口を離れ、軍を除隊し、熱心に本を読み、救国救民の道理を模索した。

  吉鴻昌(1895~1934年)、河南省扶溝人、国民軍軍長を務め、寧夏省主席となる。1931年、彼は赤軍への攻撃に反対したことから蒋介石に強制的に出国を命じられ、翌年、中国へ復帰、間もなく中国共産党へ入党した。抗日同盟軍が失敗すると、吉鴻昌は天津へ渡り、1934年に国民党に逮捕された。刑務所へ入れられるまでの路上で、彼は立ち止まり小枝を使って地面に「私は抗日のために死にたい。正々堂々と死にたい。背後から(刑のために)銃で撃たれることがあってはならない。私は敵の弾丸で自分がどのように死んでいくのかを自身の眼で見たいのだ!」と記した。そして吉鴻昌は声高に「抗日万歳!中国共産 党万歳!」と叫び勇気を示したのである。

  参考文献:九年義務教育三年生初級中学教科書『中国歴史』第四冊 人民教育出版社歴史室 編著訳 雄山閣出版 1996年 第5課 日本による中国侵略“九・一八”事変(原教科書32~40ページ)

盧溝橋事件から南京大虐殺まで―中国人が学んだ「抗日戦争史」(2)



7.盧溝橋事件
  1937年7月7日夜、日本侵略軍は北平(現北京)の南西にある盧溝橋を進攻し、長い間たくらんでいた全面的侵略戦争を開始し、また中国軍が抵抗したことによって全国的な抗日戦争となった。”盧溝橋事変”はまたの名を”七七”事変ともいう。

  盧溝橋は北平の南西、宛平県城のそばにあり、平漢鉄道の要所であった。事変が勃発前、北平は三方を日偽軍(日満軍)に統制されており、盧溝橋のみが北平から南方のその他の地域へ抜ける道であった。この理由によって軍事上において争いを免れぬ地となったのである。7日夜、日本軍が盧溝橋北から盧溝橋を目指し軍事演習を行っていた。日本軍は一兵士の失踪を理由に無理矢理に宛平県城の調査をさせることを要求したが、中国軍はそれを拒絶、日本軍が宛平県城に向かって発砲することとなったのだ。

  戦争の幕が開かれた後、中国護衛隊第29軍司令部は盧溝橋の堅守を命じたが、戦士達はすでに胸中の怒りを抑えきれず、敵を撃ち殺さんと城を出ていたが、侵略軍の撃滅はままならなかった。鉄道橋に二列の中国兵が並んで数百名の日本軍と対峙し、少しも畏れることなく敵と激戦を展開した結果、ほとんど全ての兵士が戦死してしまった。兵士達は同士が死んでいくのを見て、感傷的になることなく、歯を食いしばって全速で突進した。悲しいことに、撤退の命令にもかかわらず前進した結果、盧溝橋での両軍の戦闘状態がしばらく続いていた。

  その後、日本軍が大軍を組織し、北平・天津方面へ大規模な進攻を開始し7月末には北京・天津が陥落してしまった。

  北平防衛の過程の中で、南苑の戦いは激烈を極め、日本軍は飛行機や大砲によって狂ったように集中攻撃を行った。29軍副軍長の冬麟閣は兵を率いて、自ら前線で作戦の指揮をとった。彼は兵士に「戦死者は栄誉れであり、生存者は恥辱である。この栄誉と恥辱は、単なる個人では軽いものかもしれないが、国家民族としては重いものである。国家が危機に瀕している時は軍人として死を以って報いんとするは当然である。」と激励したという。この激戦において冬麟閣は脚を負傷しながらも作戦の指揮をとりつづけ、壮絶な殉死を遂げた。また、この戦闘において29軍師長の趙登禹も勇敢に犠牲となった。彼等の功績を記念して、北平の二本の道路は冬麟閣路・趙登禹路と呼ばれている。

8.抗戦への団結
  7月8日、中国共産党は抗日を発表し、全国人民の団結を起こさせ、民族統一戦線の強固なる”長城”を築き、日本侵略者を中国から駆逐せんとした。また、17日、蒋介石は談話によって抗戦準備を表明した。

  国共両党の協議にもとづき、中国北西の労働者赤軍を主力とした軍は八路軍に、南方八省の赤軍遊撃隊は新四軍と改編された。9月下旬、国民党は中国共産党との国共合作を宣言し、民族の危機的状況が頂点に達した時に、両党は再度合作をし、正式に抗日民族統一戦線が成立し、全民族による抗戦が開始した。

9.戦場と化した国土
  北平・天津侵略後、日本軍は中国に対したちまち全面的進攻をすすめ、北においては華北を進攻する一方で、南方では8月13日には上海へ大挙をしたがえて進攻し、南京にも脅威を与えた。これを”八・一三”事変(日本語の第二次上海事変)とよぶ。日本の作戦は早期決戦という、3ヶ月のうちに中国を滅亡しようとするものであった。国民政府は戦場において幾つもの戦闘をおこない、日本の侵略に抵抗した。

   ”八・一三”事変の勃発後、中国護衛軍も攻撃に転じ、中日両軍による激戦が上海とその周辺において3ヶ月続いた。これを”淞滬会戦”という。11月、上海は陥落し、淞滬会戦は終結した。

  淞滬会戦にて、国民政府は40万人もの軍を投入し戦闘し、一時は中国軍が日本軍の進攻を後退させたものの、日本軍はすぐに20万人の軍を増強し、性能の高い武器によって猛烈に反撃した。

  宝山県城は500名の中国官兵は守っていたが、30隻もの日本軍艦の砲撃と飛行機による爆撃に遭い、城内は火の海と化した。営長である姚子青ひきいる守城勇士は「城を守り、息あるうちは徹底的に奮闘する」と心に決め、二日にわたる激戦で、死んでも退かずという精神で、最後には両軍入り乱れての戦いの末、壮絶な犠牲となった。当時の上海の新聞は「このたび姚営は全滅したが、それは偉大なる壮絶死であり、人々の心を震えさせ、敬いの念を起こさせる。これは中国人の栄光のみならず、全人類の栄光である。そして、この偉大なる功績は永遠、不朽のものとなるであろう」と報道で賞賛をした。

  10月下旬、日本軍は上海市内に進攻、これを謝晋元団長率いる800の戦士が四行倉庫を死守し、主力部隊の撤退を援護した。四行倉庫は蘇州河の北岸に位置する七階建ての鉄筋コンクリート建築である。この時、倉庫は西側と北側を日本軍に陣取られ、東側と南側は公共租界であった。戦士達は孤軍奮闘し、日本軍の進攻を何度か退けた。戦闘が熾烈を極めた時、楊恵敏という一人の女学生が生命の危機もかえりみず、公共租界から蘇州河を渡って四行倉庫へ国旗を送った。その国旗は四行倉庫の屋上に掲げられ、戦士達に無限の勇気と力を与えた。そして彼等は四昼夜、戦った後、任務を完了し、公共租界へと撤退した。

  盧溝橋事変から、すぐに日本軍は山西省に進入し、太原を手に入れようと企てた。国民政府はこれに対し太原会戦を組織、八路軍が山西の前線として会戦に参加した。9月に横暴な日本軍が平型関に向けて進軍を開始、平型関の東側に潜伏していた八路軍115師団がそれを攻撃した。この攻撃によって、1,000人 を超える日本軍を壊滅させ、多くの軍事物資を手に入れたが、これは”平型関大捷”とよばれる、中国抗戦以来の大捷(大勝利)であった。

  平型関は地形が険しく、八路軍はまた豪雨に立ち向かった。真っ暗い夜に道路の両わきの山にひっそりと隠れ、日本軍を射程距離まで引き込んでから、八路軍 戦士が向かっていった。まず、手榴弾で日本軍の後方の車両を破壊し、前方の車両を後退できないようにした。そして日本軍が防備しようがなくなった時に襲撃をおこなった。八路軍は日本軍を5キロメートルの峡谷に包囲し、格闘に持ち込み、一日足らずで決着をつけ、日本軍をのした。

  1937年12月、日本軍は南京を陥落。国民政府は重慶へ移り、重慶を戦時の首都と定めた。

  翌春、日本軍は山東に二手に分かれて南下、徐州に進攻をした。国民政府は徐州会戦を組織し、第五戦区司令長官の李宋仁が中国軍を指揮し、日本軍の一隊を山東の臨沂で、もう一隊を山東の台児荘で阻止しようとした。両国軍は台児荘では激戦を繰り広げ、結果、日本が大敗を喫した。台児荘において壊滅した日本軍は1万人を数え、国民政府にとって抗戦以来、最大の勝利となった。

  台児荘の戦いが激烈を極めていた時、中国軍の陣地には毎日6、7,000もの爆弾が落とされ、その後、日本軍は戦車で庄内を猛突進した。中国軍には戦車も戦車を迎え撃つ大砲もなかったが、血と肉を武器として戦い、敵と格闘まで持ち込んだ。そして、庄内の3分の2が日本軍によって攻略された時、日本のラジオ放送では既に台児荘は全て占領したと報道されたが、中国軍は数百人の決死隊を組織し、夜間において何度も反撃を行い、奇跡的にほとんどの街を奪い返し た。間もなく、中国軍は全面反撃を開始し、日本軍は壊滅した。

  中国軍の勇敢なる抗戦によって、日本軍の早期決戦の企てはもろくも崩れ去り、中国を絶滅させるという狂った計画も泡と消えたの。だが、国民政府は抗日戦争中に人民が政府や軍の抗戦に頼るだけで、自らは動かないという状況を恐れていた。この理由によって、太原・徐州など相次いで日本軍の狂ったような反撃の前に阻止することも出来ず、また、1938年10月には、広州・武漢も日本軍に占領された。これで中国は華北・華中・華南の主要領土を全て失ったのであ る。

10.南京大虐殺
  日本侵略者は至る所で焼き殺し、略奪、強姦など悪事の限りを尽くした。日本軍は南京占領後、南京人民に対して血なまぐさい大虐殺をおこない、これ以上にない罪を犯した。南京で平和に生活していた住民は、射撃の練習代とされ、刀剣の試し切りの対象となり、ある者は生き埋めにもされた。戦後の極東軍事裁判による統計では、日本軍は南京占領後の6週間にわたって何も持たない中国住民や、武器を手放した兵士を30万人以上も虐殺したという。

  1937年12月15日、既に武器を手放した中国軍人と警官3,000人余りが、南京漢中門外にて日本軍に機関銃で射殺された。その後、まだ死亡していない者も死亡者とともに焼かれてしまった。

  16日、中国難民5,000人余りが日本軍によって南京中山埠頭へ集められ、両手を結ばれ、整列させられた後で機関銃射撃され、死体は長江へ捨てられた。その中から、たった二人が生き延びた。

  18日には南京幕府山で老人と子供5.7万人が鉛線で結ばれながら、南京下関草鞋峡まで移送され、機関銃で打たれた。その血の海の中でうめき声をあげながら、何とか生きようと必死になっていた者は刀剣で突かれ、最後は日本軍によって全て焼かれてしまった。その中に生存者はいない。

  12月、日本の『東京日日新聞』上で「紫金山下」という表題で次のような報道がされた。「日本軍向井少尉と野田少尉は百人切りの試合を開き、野田は105人、向井は106人を切り殺した。だが、どちらが先に100人目を切ったかはわからず、勝負はつかず、再び誰が先に150名切るかで再び賭けが始められた。」

※参考文献:九年義務教育三年生初級中学教科書『中国歴史』第四冊(人民教育出版社歴史室 編著訳 雄山閣出版 1996年)第7課 神聖なる抗戦(原教科書48~55ページ)



(執筆者:丸尾達 提供:中国ビジネスヘッドライン)

華僑や海外からの援助―中国人が学んだ「抗日戦争史」(3)

【コラム】 2011/08/19(金) 15:18



(本稿は、『中国歴史』(全四冊、中学歴史教科書)の第5章の日本語訳の続き。以前までのは、(1)、(2)から)

11.全面抗戦路線
  中国共産党は全面的抗戦路線、すなわち人民戦争の路線を実行した。1937年8月、中国共産党は陜北にて世にも名高い”洛川会議”を開いた。会議場にて動員された者は全力で抗戦の勝利をつかみとることが決定され、『抗日救国十大綱領』を通して、すでに発動されていた抗戦は全面的な民族抗戦にまで発展した。会議はまた、敵の背後にまわり、独立自主のゲリラ戦を展開することを決定した。敵の背後を戦場とし、敵の背後に抗日の根拠地を建設したのである。全面的抗戦路線の指揮のもと、党は群衆に呼びかけ、群衆を組織し、群衆に武装させ、日本侵略者との厳しい闘争を展開した。中国の抗日戦争はこうして急速に全民族による抗戦へと発展していったのである。

12.敵後戦場
  日本侵略軍が中国で狂ったような進攻をしていた時、中国共産党が率いる人民軍は敵の背後へとまわり、独立自主のゲリラ戦を広く展開、次から次へと敵の背後に抗日の根拠地を築き、敵の後方を抗日前線と化したのである。山西・察哈爾・河北の三省は当時はじめて築かれた抗日根拠地である。

  1937年10月、山西・察哈爾・河北の三省のあたりで混乱が発生した。実った農産物を収穫できず、無数の難民が山村の部落へと逃げ込んだ。国民政府軍は鉄道に沿って南へ撤退を続けていたのだが、大砲や銃を至る所に放棄していったので、国民政府の地方政権は瓦解状態にあった。そして、何人かの日本浪人が勝手きままに日本国旗を掲げては我が物のように村を占拠していったのである。そこへ、聶栄臻ひきいる八路軍115師団一部隊は五台山を中心にゲリラ戦を展 開し、あちこちの敵を打ち負かし、多くの村を復興させた。その時、各村で動員が行われ、ゲリラ隊・義勇軍・自衛軍として急速に発展していった。回族(イスラム族)も回族隊を組織した。間もなく、山西・察哈爾・河北軍区の司令部と山西・察哈爾・河北政府が成立し、最後には2万人もの日本軍を壊滅させる抗日根 拠地となったのである。そして、中国軍民ゲリラ戦争の勝利は世界中の人々から熱い賞賛をあびることとなった。

  また、八路軍は新しい四軍を設立し、山西・河北・河南にまたがる地区、河北・山東・河南にまたがる地区、山西・内モンゴルにまたがる地区、山東、江蘇南部、安徽東部、長江東部を根拠地とした。

  日本軍が黄河北部に進攻した時、中国共産党山東委員会の幹部は泰安県へ赴き、県委員会の幹部と山東中山区でのゲリラ戦を展開した。彼等のすべての武器 は、たった一丁の壊れたピストルと二丁の旧式小銃だけであった。計画に沿って、彼等は何人かの北平(当時の北京)と天津のゴロツキ学生と山陽村に集合し、ここに山東人民抗日自衛隊が成立した。山陽村の共産党員4、50人も自衛隊に加入した。彼等は20丁以上の銃を有していた。この隊は戦闘中にどんどん大きくなり、ついには山東に抗日根拠地を建設した。そして、八路軍が山東西部に入った時には、山東は抗日根拠地として強固に拡大したのである。

  陜甘寧地区は中国共産党ひきいる全国人民抗戦の中心で、延安は中国共産党の中心部であった。

  延安は陜西北部に位置し、抗日戦争時には中国共産党の中心部であった。つまり全国の敵の背後にあった抗日根拠地の指揮の中枢であり、人民の抗日戦闘能力を高める指導の中心であった。多くの工人、農民たち群衆や進歩的な青年、インテリがあちらこちらから延安を目指してやってきた。また、ここから革命の火種 が全国各地へ飛び散ったのである。

  中国共産党の指導のもと、東北各地にあった五つの軍は東北抗日聯合軍として統一された。そして楊靖宇、李兆らが分担して指揮をとった。1937年初め、東北抗日聯合軍は4万人以上にまで発展し、東北各地をコントロールしていた。彼等は劣悪の環境の中で、勇敢に日本侵略軍と戦い、多くの武勇伝を残した。

  抗日聯合軍の中には、冷雲という名の女性も指導員として一隊八人の小部隊を率いていた。1938年10月夜、牡丹江支流の烏斯渾河の下流にて敵に包囲される目に遭った時のことだ。彼女等は頑なに抵抗を続け、血まみれになりながら弾が尽きるまで戦った。冷雲は毅然として負傷した戦友を背負いながら、河の中まで走り、それに他の戦士も続いた。そして彼女は声高の「打倒日本帝国主義!」と叫び烏斯渾河の中へ身を投げたという。八名の若い女性は中華民族の生き残りのために命を捧げたのである。彼女等の中には最年少の13歳戦士もいた。

  楊靖宇(1905-1940年)は河南確山人で、1940年初、10数名の戦士を率いて、吉林蒙江県の山林にて、日本軍に包囲されながらゲリラ戦を行った。裏切りによって、日本軍の包囲はますます厳しくなり、最後には楊靖宇ただ一人が何日間にもわたって数百名の敵を相手にして、壮烈な死を遂げた。残虐な敵は彼の遺体を解剖したが、その時、彼の胃の中には少しの食料もなく、樹皮や草の根や綿花のみが見つかったという。人民は彼を民族の英雄として、蒙江県の名は靖宇県と改められた。

  全国各地の抗日根拠地において、中国共産党は人民を指導し、抗日民主政権を打ち建て、群衆を武装化し、根拠地を日に日に発展させていった。八路軍、新四軍、そして其の他の人民軍隊は敵の背後でのゲリラ戦を拡大し、多くの日本軍を攻撃し、敵の後方に大きな脅威を与えた。

13.祖国の抗戦を支援した華僑
  抗日戦争の時期、香港・マカオの同胞と海外の華僑は積極的に祖国の抗日戦争を支援し、大きな貢献をはたした。彼等は華僑の領袖である陳嘉庚の指導のもと、多数の救亡団体を組織し、抗日救国活動を展開した。

  陳嘉庚(1874~1961年)、福建同安人。長期、シンガポールに滞在し、ゴム業に携わっていた。中国抗日戦争勃発後、彼はシンガポールにて”南洋華僑祖国難民応援総会”の設立を提唱するとともに、その首席に選ばれた。これは東南アジアの華僑救亡闘争における最高機関である。この機関は海外華僑同胞 に”各人が出来ることで力を尽くせ。募金を増やし、公債を売り、中国で抗戦中の難民を救済するのだ”と呼びかけた。救亡団体の指導のもと、多くの華僑が着る物も食べ物も倹約し、祖国への義捐に努めた。彼等は大量の資金、衣服、食品、薬品だけでなく、飛行機は銃器、自動車などの軍用物資も抗戦のために提供し、これは重要な力となった。

  盧溝橋事件から1941年初まで華僑による抗戦援助の義捐金は26億元にものぼり、ミャンマー華僑が初めて100両のトラックを寄付し、運転技師も準備してくれた。サンフランシスコ華僑は短期間で10機の飛行機を寄付し、空軍 隊の組織が可能になった。簡夫人という名の渡米華僑は抗戦勃発後6ヶ月の間で苦労して稼いだ1.5万米ドルもの献金をした。彼女は”中国が滅亡しないので あれば、わたしは最後の1元まで祖国を救うために寄付してもいい。もし中国が不幸にも滅亡するようなことがあれば、この世界から離れることを誓う”と語ったという。

  自分の祖国を守るため、ある華僑青年は抗日戦争に参加までして、そして直接、日本侵略者を打ち負かしたのだ。その中には多くの人が最も貴い生命を捧げたのである。

  南洋華僑の林日尊は帰国し抗日空軍に参加し勇敢に戦い、優秀な戦績で山西で中尉にまで昇格した。しかし彼は不幸にも成都で敵機を迎撃する時に弾が命中し、国の犠牲となった。華僑家庭出身の少女であり李林は帰国後、八路軍に参加し、同時に中国共産党へ加入した。彼女は護衛機関にいた時に重症を負い、壮烈な殉死を遂げた。これを”全国全同胞が敬うヒロイン”として讃えている。

14.国際援助
  中国の抗日戦争は全世界から深い同情と熱烈な支援を受けた。ソビエト連邦政府は中国に多くの飛行機・大砲・戦車などの軍事物資を提供した。また航空志願隊を派遣し、中国の対日作戦に参加させた。太平洋戦争勃発後は米国も中国に大量な援助を行った。

  多くの国家が志願人員を中国へと派遣し、中国の抗日戦争を支援した。偉大なる国際主義戦士である白求恩はカナダと米国の共産党の派遣を受けて、医療団を率いて中国へ来た。のちに彼は山西・察哈爾・河北の根拠地で働き、中国人民開放事業のために貴い生命を捧げた。

  白求恩(=ノーマン・ベチューン、1890~1939年)、カナダ人、共産党員。彼は危険もかえりみず、労働を惜しまず、一心に前線の負傷者に世話をして人々を感動させた。1939年春、八路軍と日本軍が河北斉会一帯で激戦を展開した時、白求恩は手術室を前線から僅か2キロしか離れていない小さな寺へ移 した。砲弾が寺の周囲で爆発すると、屋根の瓦が落下した。師範衛生部長は何度も白求恩に撤退を求めた時、白求恩は「戦士達が陣地から離れないように、手術台は医師の陣地である。私はどうしてここを離れなければならないのか」と言ったという。このように、白求恩は69時間働き続け、戦闘が終了するまでに、医 療隊の同志と100人以上もの負傷者を手術した。

  インドの中国援助医療隊の医者である柯棣華は敵後方の抗日根拠地での医療衛生事業において多大なる貢献をし、その後、働きすぎがたたって、中国で永眠することになった。米国記者の史沫特莱(=アグネス・スメドレー)と埃徳加・斯諾(=エドガー・スノー)らは世界へ向けて中国人民の勇敢な抗戦の状況を発信した。彼等の国際主義の精神は永遠に中国人民の心の中に生き続けるだろう。

  九年義務教育三年生初級中学教科書『中国歴史』第四冊 人民教育出版社歴史室 編著訳 雄山閣出版 1996年 第8課 敵の背後へ回れ(原教科書56―63ページ)

(執筆者:丸尾達 提供:中国ビジネスヘッドライン)


日本の傀儡政権と残虐な統治、略奪―中国人が学んだ「抗日戦争史」(4)

【コラム】 2011/08/22(月) 10:25



(本稿は、『中国歴史』(全四冊、中学歴史教科書)の第5章の日本語訳の続き。以前までのは、(1)、(2)、(3)から)

15.日本の中国侵略方針の変化
  広州、武漢の陥落後、戦争の様相には変化が発生した。日本軍は大きな中国領土を支配するのに、あまりに戦線を長く引き過ぎたために兵力も不足し、国内資源にも圧迫を与えた。中国共産党が指揮する背後からのゲリラ戦も猛烈なる発展を遂げ、抗日根拠地も急速に拡大をしていき、敵軍は背後からの威嚇に脅えるようになった。

  日本侵略者は戦略方針の変更を余儀なくされた。国民党に対しての大規模軍事行動をやめ、政治的支配を主とし、軍事的支配を補助的なものとした。そして八路軍や新四軍といった背後からの抗日根拠地に対して兵力を集中し始めたのだ。同時に、日本軍の占領区での軍事統治や経済的略奪が強化されていった。

  1938年の終わりに、日本の首相であった近衛文麿は声明を発表し、所謂日中の”善隣友好”、”共同防共”、”経済提携”の三原則を提唱し、国民政府の投降を誘導せんとした。

16.汪傀儡政権の成立
  日本侵略者は占領地毎に漢奸を利用して傀儡政権を成立させた。そして中国人民に対する植民地統治の一助とした。これこそが日本帝国主義の”中国を以って中国を制す”といった侵略政策である。

  日本帝国主義の誘惑のもと、国民政府の親日派リーダーの汪精衛(汪兆銘)は国を裏切り敵に投降することを公けにし漢奸となった。1940年3月、日本は汪精衛による南京国民政府成立を助けた。しかし、これは日本帝国主義の言いなりにしか動けない日本の中国侵略の道具にすぎなかった。傀儡政権の成立によって日本は中国を滅ぼそうとしたのである。このようにして陥落した地区では植民地統治の罪深い悪の段取りが実行されていった。

  汪精衛(1883~1944年)、広東番禺人。早くから中国同盟会に参加したが”九一八事変”後、一貫して日本への妥協を唱えた。1938年12月、日本との裏取引の段取りにしたがって、国民党副総裁の身でありながらも、汪精衛は重慶を離れ、ベトナムのハノイへと逃亡した。彼がハノイにいるという声明は近衛文麿によって発表された。また近衛”三原則”という”和平を原則とす”という嘘を掲げ、蒋介石の国民政府への”和平原則をもとに、日本政府と誠意ある交流をし、平和を復活させよう”という要求を発表したが、全国人民の糾弾に遭った。傀儡国民政府は”和平反共建国”の売国的投降の綱領を以って、日本と多くの国家主権を売るような条約を結んだ。その内容は満州国の承認や、日本からの顧問の派遣による傀儡政権のコントロールの容認、反共活動の協力などが含まれていた。傀儡国民政府はたったひとつの傀儡軍を組織するのみで、日本軍の援助によって背後の抗日根拠地に進攻をしていた。そして植民地統治を維持し、経済的略奪を行ったのである。日本投降後、この傀儡国民政府は解散した。

17.残虐なる統治
  陥落地区において、日本侵略者は威嚇でもって植民地統治を維持した。彼等は憲兵、警察、裁判所、監獄などを中国人民を鎮圧する機構として設立し、憲兵、警察は特務として各地で卑劣で邪な行為をおこなった。中国住民を勝手気ままに逮捕をしては厳刑として打ち叩き死に至らしめた。ある者は「中国人ならば思想 犯、政治犯になり得る」と言ったそうだ。陥落地区の人民は亡国の奴隷的生活を過ごしていたのだ。

  11歳の児童であった黄継先は東北の東豊県城で暮らしていた。日本兵が彼に問うた。「日本人がいいの、中国人がいいの?」と。その時、彼は「日本人は日本がいいというけど、実は中国がいいんだってパパが言ってた。日本は僕達の敵なんだって」と答えた。日本兵はこれを聞いて、即、刀剣を振りかざし彼を殺害した。

  日本侵略者は各級の傀儡政権と傀儡軍を組織していたが、陥落地区の人民に対して保甲制(住民が互いに監視し合う制度)を敷き、戸籍を整理し、”良民証”を発行し、厳格な統制を実行した。また、人民と抗日部隊の連絡を断つために、日本軍はたくさんの無人区を建設した。

  1942年、日本軍は長城の両側に全長300キロ以上、30平方キロ以上もの無人区を建設した。日本軍はもともとここに住んでいた住民をある山里へ追い 出し、四方を高い壁によって囲まれた”人圏”に集中させた。この”人圏”の中で、日本軍は人民に対したびたび”大検挙”を実施し、厳刑をもって気ままな殺害をおこない”人圏”からの逃走も許さなかった。日本軍はまた幾度も快速部隊を派遣し、この地区一帯を繰り返し何度も捜索した。

  残虐な日本侵略者は東北に細菌戦研究部隊を設立した。それは”石井部隊”と呼ばれ、ペストやコレラ、チフスなどの病原菌の研究を主とし、これらの病原菌を利用した爆弾をもっていた。人格を失った侵略者は何とまだ生きている中国人さえも実験の道具とし、多くの中国人が無残にも殺害された。

  石井部隊は捕らえた中国人を”原木(マルタ)”と称し、細菌注射、感染食実験などを実行しただけでなく、生きた人間の解剖まで行った。この”実験”によって殺害された中国人は3,000人以上にもおよんだ。石井部隊が製造した病原菌は、浙江寧波や湖南常徳、山西・察哈爾・河北の抗日根拠地でも散布され、無数の中国軍民が毒の被害にあった。

  血なまぐさい鎮圧と同時に、日本侵略者は大規模な奴隷化教育を行った。陥落地区の人民の民族意識を削ぎ、中華民族の文化伝統を滅ぼし、中国人民を亡国の奴隷をしたのである。

  日本帝国主義は学校を通じて青少年に奴隷化思想を吹き込んだ。所謂、”中日親善”、”共存共栄”などのスローガンである。また、日本語が”国語”として必修科目となり、陥落地区の各学校で、日本語を用いた中国人への同化政策が企てられた。

18.野蛮なる略奪
  日本は侵略戦争を発動した後、莫大な生産原料や各種物資の消耗をし、日々それは枯渇していった。日本侵略者は中国の陥落地区において各種物資を略奪し、中国を侵略戦争の物資供給基地を化そうとしていた。日本の野蛮な略奪政策は”戦で以って戦を養わん”というスローガンとなった。

  日本軍は各占領地区において、まず銀行の黄金や現金などを没収し、陥落地区の経済を統制した。また、日本侵略軍は銀行を建設し、紙幣を氾濫させ大量の中国人民の血と汗が搾取されていった。

  1937年から1941年までで、陥落地区における50以上の中国公私銀行すべての損失は4億元以上にのぼり、大部分は日本に略奪されていった。

  中国の工業鉱産資源、とくに石炭、鉄資源の略奪は”戦で以って戦を養わん”とする日本帝国主義の重要な目標であった。日本帝国主義は様々な手段を用いて、陥落地区の全ての工業鉱産企業からほとんど資源を奪ってしまった。1937年、日本は東北に”満州重工業開発公司”を設立し、東北の戦略物資の略奪と 軍事工業の発展をおこなった。この会社はまた”華北開発公司”、”華中振興公司”などとも通じて大規模な中国資源の略奪をおこなった。

  最大の略奪として中国の石炭の例がある。日本侵略者は”人を以って石炭に換える”という罪深い悪の手段を採用し、刀やムチで労働者を威嚇し、毎日15、6時間も働かせた。労働環境は決して安全なものではなく、事故による怪我や死亡が頻繁に発生した。平均すると200トンの石炭に一人の中国人労働者の死が 犠牲になったことになる。日本侵略者は血と汗を搾り出し、労働者の労働能力をも喪失させた。また、このような状況に陥った労働者は荒れ果てた野山まで連れて行かれ餓死を余儀なくされた。この白骨が積み重なる場所は”万人坑”とよばれ、大同炭鉱附近には20以上の”万人坑”がある。

  “工業日本、農業中国”の植民地政策の方針にもとづき、日本帝国主義は中国の土地と農産品をも略奪した。このほか、多くの労働力も略奪された。

  日本侵略者は武力を用いて中国農民を追い払い、土地を奪った。奪われた土地は軍事用として使われたものもあり、農地として使われたものもあり、日本からの移民にあてがわれたものもあった。1941年、日本からの移民は60万人を超え、これらの移民が種をまいた田畑や住んだ住居は全て中国農民の手から奪い取ったものである。

  日本侵略者は多くの食糧を略奪し、食糧も軍事物資とする規定を出し、私的な貯蔵や流通は許されなかった。陥落地区の人民には僅かで粗悪な食糧だけが配給され、飢饉や死亡が多発化した。1943年には北平(今の北京)では平均して毎日300人以上もの凍死餓死者が出た。日本軍は武力をもって農民の食糧を召し上げ、毎年の収穫の季節には度々ゲリラ戦区や抗日根拠地へ行って食糧を奪い取った。

  労働力も日本侵略者の略奪の目標であったが、1942年末には華北地区だけで600万人以上もの労働適齢人材が奪われた。日本侵略者は彼等を各地の労役に服従させ、中には日本にまで輸送され労働させられた者もいた。山東の貧しい農民であった劉連仁は1944年、日本にとらえられ、石炭発掘の重労働に従事した。彼は残酷な搾取に耐えられず、一人で逃亡を試みた。そして北海道の山中で13年過ごし”野人”となり、1958年、彼はようやく祖国に戻ることができた。

  参考文献:九年義務教育三年生初級中学教科書『中国歴史』第四冊 人民教育出版社歴史室 編著訳 雄山閣出版 1996年 第9課 日本侵略者による残虐統治(原教科書64~69ページ)

(執筆者:丸尾達 提供:中国ビジネスヘッドライン)

東京の原発住民投票条例案、都議会委が否決 自公が反対

 原発の是非を問う住民投票条例案について審議を続けていた東京都議会の総務委員会は18日、条例案を採決し、反対多数で否決した。条例案は20日の本会議でも否決される見通しだ。

 採決では、委員長をのぞく委員14人のうち、知事与党の自民、公明の7人と、自主投票となった民主の1人が反対した。意見陳述で自民は「国がエネルギー政策を構えることが重要で、都民投票すること自体、不適当」、公明は「是非を二者択一する投票では多様な都民の意思が正しく反映されない」と述べた。

 民主は「直接請求した32万人の都民が求める意思表明の場があってしかるべきだ」として、投票資格を「20歳以上の日本国民」とする修正案を提出したが、可否同数となり、吉倉正美委員長(公明)の裁決で否決された。共産党提出の修正案も反対多数で否決された。


【中国BBS】なぜ中国では抗日戦争ドラマが増えているのか?

 中国大手検索サイト百度の掲示板に「なぜ中国では抗日戦争ドラマがますます増えているのか?」というスレッドが立てられ、スレ主の疑問に対してさまざまな回答が寄せられた。
■「中国BBS」に関する他の記事 - サーチナ・ハイライト
  中国では連日、多くのテレビ局で抗日戦争に関するドラマが放送されているが、スレ主はここ最近、ますます増えてきていると感じているようだ。その理由について質問したスレ主に対し、多く寄せられたのが「日本を悪く描き、民衆を洗脳して、民族主義者を多く輩出するため」という、洗脳するためという回答だった。

  しかし、ほかにも多くの理由があげられ、西洋を崇拝し外国人に媚びる中国人が多いから、日本を好きになる人が増えているから、何の苦労もなく視聴率が稼げるから、流行だから、国民党と共産党の政治提携のためには共通の敵が必要だから、などの意見があった。

  また、抗日ドラマに対する批判的な意見も多かった。

・「中国が撮る抗日ドラマには、戦争の残酷さや恐怖感、絶望感が描かれておらず、むしろ戦争がおもしろいもののように描かれている。抗日の主役である国民党を悪く描き、侵略者の日本を悪く描く」
・「中国は経済発展したが貧富の差が大きく、腐敗や社会矛盾が激しくなっている。だから日本を利用して憎しみの感情を煽り、民衆の注意をそらしているだけだ。憎しみを増し加えることの目的はただ1つ、安定だ」
・「自国人を妄想させるためだ。自国の軍隊がいかにすごいかを見せつけている。だが本当は台湾に行った軍隊のほうがすごかった。わが国は彼らの功績を奪っただけ」

  このように、比較的冷静に判断しているコメントが少なからず寄せられた。そのほかの意見には、日本人は記憶力が悪いからわれわれには彼らに思い出させる義務がある、というコメントや、今でも抗日ドラマを見る人は多く、簡単にお金が儲けられるからというコメントもあった。(編集担当:畠山栄)

【中国BBS】中国人はなぜ反日になる? 教科書か抗日ドラマか

【社会ニュース】 2012/05/16(水) 10:04



  中国大手検索サイト百度の掲示板に「冷静に考えてみると中国の教科書は反日を教えているだろうか?」というスレッドが立てられた。スレ主が投げかけたこの質問に対してさまざまな回答が寄せられた。
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  スレ主は「全国が同じ教科書を使っているが、どの教科書に日本を憎むよう教えているものがあるだろうか。ある人は中国の教科書は反日を教えているというが、証拠はあるのだろうか?」と問いかけている。

  これに対して寄せられた回答はいずれも「教科書には書いていない」というものだった。

・「教科書では教えていないね。反日愛国青年の心理は教えてもらうものではない。生まれつきなのだ」
・「確かに教えていない。でも社会にはそういう暗黙の雰囲気がある」
・「教科書は日本を憎むように教えてはいない。でも、日本の各種悪行はわれわれを反日にさせる」

  また、教科書では教えていないが先生が教えるという意見もあった。

・「個人的には、歴史の教科書などで少し触れてはいるが、問題は教師がそれにいろいろなことを加えて話すからだと思う」
・「教科書では教えていない。でも先生は反日を教えて良い」

  また、テレビにも問題があるという意見もあり「テレビを見ればすぐに分かるさ。うちは70チャンネル見られるけど、お昼の時間に4つのチャンネルは抗日ドラマをやっている。そのうち1つは国営テレビ」というコメントも寄せられた。

  そのほかの意見には、「われわれの教科書はこの点についてどう考えるべきかを教えるが、われわれに考えさせることはしない。特に歴史の教科書」と、教科書にも問題があるというコメントや、「反日教育をしていなければ99%の中国人は反日になっていないと思う」、「海外で育った華人で強烈な反日感情を持った人を見たことがない」という意見もあった。(編集担当:畠山栄)
  
  
【中国BBS】中国人が反日なのはやっぱり抗日ドラマのせい?

【社会ニュース】 2012/05/14(月) 12:41



  中国大手検索サイト百度の掲示板に「今でも中国人が反日なのはやっぱり抗日ドラマのせい?」というスレッドが立てられた。スレ主のこの主張に対してさまざまな意見が寄せられた。
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  スレ主は「テレビをつけると必ず中国共産党軍が日本軍に打ち勝つドラマがやっている。だから俺の母親は“日本人が一番悪い”と言っている。中国人が日本人を憎む最大の理由はこうしたプロパガンダだ」と述べている。これに対してスレ主と同様の意見が寄せられた。
 
・「小さいころから抗日ドラマを見て、政治と歴史の授業を受ければ憎しみが刷り込まれていくさ」
・「正常なことだ。国には仮想敵国が必要なのだ。日本は歴史にしても経済にしてもちょうどピッタリの仮想敵国。何もしなくても日中関係は良くないし」
・「オレの母親も抗日ドラマが好きなんだよね。子どもは何も分からないから、親に倣って日本を憎むようになる」

  ほかにも「われわれは疑うっていうことを知らないのかね」というコメントもあった。また、中国で放送される抗日ドラマの内容に疑問を呈し、「抗日戦争の主力は国民党軍で、中国共産党軍は通り過ぎただけ。なぜテレビで宣伝する物は違うんだろうね」というコメントもあった。

  しかし、反日愛国青年と見られる意見も少なくなかった。

・「日本もドイツのように過ちを認めれば、こんなにも多くの人が日本を憎むことはない」
・「テレビなど見なくとも尖閣諸島のニュースを見ればよく分かる!」
・「南京大虐殺は永遠に忘れられない!中国人をアリのごとく殺したんだ!日本人の肩を持つ発言をする奴は売国奴だ!中国人を名乗るにふさわしくない!」

  上記の意見に対しては「モンゴル族による漢族虐殺や揚州十日、ブラゴヴェシチェンスク事件、アムール川事件なども覚えているのかな?」という鋭い指摘をする人もいた。また、靖国神社参拝を非難するコメントもあったが、「靖国神社に祭られているのは日本の軍人。侵略戦争の過ちは日本のファシストの過ち。軍人は無辜だ」という意見もあった。

  そのほかの意見には「小学校の時は日本が超憎かった。中学に入って普通になり、高校では何も感じなくなり、大学に入ったら日本が好きになった。どうしてだろうね」というコメントや「どの国でも戦争で苦しむのはいつでも庶民。だから戦争はしてほしくない」という意見もあった。(編集担当:畠山栄


なぜこうも違う?日本を恨み続ける中国人、日本に感謝する台湾人―SP華字紙


紹介済みなのでURLのみ。

【中国ブログ】日本のポルノ文化がアジア人女性の安全を脅かす

性犯罪大国、売春婦輸出大国が何を抜かすか。

【社会ニュース】 2012/06/18(月) 11:17



  日本のポルノが米国へ輸出されるようになって以来、ポルノで描かれる日本人女性のイメージがアジア人女性に対する性的暴行の増加を促進している。中国人ブロガーの「井底望天」さんはこのように述べて、日本の性道徳の退廃を嘆いている。
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  商業社会は顧客を増やすため、常に若者たちをターゲットにしていると語る筆者は、「その結果、一部の日本の少女たちは香水や化粧品、バッグなどが欲しくて援助交際に手を染めている」と主張した。

  筆者は、日本のポルノ文化が米国に輸出されるようになって、米国人男性の日本人女性に対するイメージは変化しつつも、アジア人女性のイメージは日本人女性のイメージから形成されていると述べる。

  米国では日本のポルノ文化の影響で性的暴行事件が発生したことがあるが、筆者は、「日本人と中国人、韓国人を区別できない米国人によって、中韓などほかのアジアの女性たちが性的暴行の被害者となっている」と主張した。

  さらに筆者は「中国も女性に対する正しいイメージを守らなければ、日本のポルノ文化の影響を受けて堕落してしまう危険性があるだろう」と結んだ。(編集担当:畠山栄)



<中華ボイス>中国が恥ずかしい“史上初”=「co.jp」への接続を遮断
―中国有名ブロガー


15日、中国国内からアドレスの末尾に「co.jp」がつく日本のウェブサイトへのアクセスができなくなっていた。原因は伝えられていないが、当局の規制によるものとみる人が多い。写真は当日のネットの状態。

2012年6月15日、中国国内からアドレスの末尾に「co.jp」がつく日本のウェブサイトへのアクセスができなくなっていた。末尾に「co.jp」を使用するのは日本の企業が多く、日本最大級のポータルサイト・ヤフーを始め、多くの日本企業へのアクセスが接続不可となった。原因は伝えられていないが、当局の規制によるものとみる人が多い。

17日、中国の有名ブロガーは接続トラブルについて、「さすが中国だな、co.jpのアクセスを不可にして多くの日本企業との接続を遮断した。国別コードのドメインが入ったアドレスへの接続が遮断されるなど、インターネット史上初のことだ」と皮肉交じりに意見を自身のマイクロブログに掲載した。(翻訳・編集/内山)



【中国ブログ】いつ、日本を超せる……3年? 5年? 遠い将来?

Y! 【社会ニュース】 2009/10/09(金) 20:57


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  「鷹目(ハンドルネーム)」さんは情報サイトの環球網の投稿ページ「中日論壇」に「中国はいつ、日本を超えられる? 3年? 5年? 遠い将来?」と題する文章を掲載した。経済不振に苦しむ日本だが、過去の例から「日本人の危機克服能力を見くびってはならない」と主張した。

  同文章は6月10日の投稿だが、日中問題を扱う環球網の中日論壇への投稿では、閲覧数が現在もトップクラスだ。

  「鷹目」さんは、日本敗戦の1945年の状況を紹介。死者310万人、海外から引き上げた軍民は650万人、失業者は1300万人、国の資産の40%が消失したなど、数字を列記した。ただし、ソ連のスターリンは「日本人はいつか復活する」と予言したという。

  風向きが変ったのは1946年になってからで、上は皇族や政治家、下は一般庶民まで復興のために立ち上がった。「飢え死にしたくなかったら、褌を締めなおして死にものぐるいで働け」との合言葉のもと、困難に耐えた。そして日本は約20年で米国に次ぐ世界第2の経済大国になった。

  1973年の第一次オイルショックの際、中国など多くの国の学者は「日本の奇跡は終わった」と表明した。しかし日本は2度のオイルショック、80年代のドルショックを乗り越えた。それどころか、80年代から90年代にかけての連続8年間、日本の経済競争力は世界第1位と評価された。

  「鷹目」さんによると、現在の金融危機で日本が受けた傷は大きく、過度の外需依存から脱却して内需を拡大させることなど重大な課題は多いが「この一時期の調整局面が過ぎれば、日本はこれまで以上の実力と競争力を得る」と考えられる。

  「鷹目」さんは、日本人には「治にあっても乱を忘れず」と、常に危機的状況が到来した場合のことを忘れない特徴があると主張。日本の企業戦士は温順な心が強く、欧州や米国、韓国のように国を挙げてのストライキが発生しないことも強みとした。

  また、作家の渡辺淳一氏の文章によるとして、現在の日本の状況は「餓死者が街にあふれることはない。つまり贅沢(ぜいたく)の中の危機」と指摘。「贅沢の中の危機だが、危機感は高まる。これが日本の変革の原動力になる」と主張した。

  同文章に併設されたアンケートでは、「中国が日本を超すまでの時間」を「3年間」と回答した人は12.48%、「5年間」とした人は8.78%。一方、「長い年月がかかる」とした人は78.74%だ。(編集担当:如月隼人)


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コメント

脱原発の末路

動画で反原発1万人デモを見ました。動画を撮っている女性が感極まって(火病して)泣きながら撮影していました。本当に気持ち悪いです。NHKも毎日毎日ニュースで必ず原発関連のニュースをしつこく混ぜ、反原発のステルスマーケティングをしています。感情論やマスコミに先導された国民が正しい投票など出来るわけないのです。原発は国防であるという観点が抜け落ちていてお花畑もいいとこです。

私事で恐縮ですが、昨日妻が事故に遭い救急車で運ばれました。原因はボコボコの道路です。到着したあまりにもボロボロの救急車にまずびっくり、搬送された病院は電気をけちって薄暗くクーラーがないため窓全開で蚊がぶんぶん飛んでいて、応急処置をしてもらってから医者の診断まで待つ事4時間、レントゲンの機材も恐ろしく古かったです(ドイツsiemens製、読み取り機はFUJIFILM)。イタリア一番の経済都市でもこのありさまです。原発を全廃してしまった国の実情なんてこんなものです。電気はフランスから買えばいい、機械はドイツから買えばいい、観光だけで食べていけるはずだ!、と思っているのです。経済危機で消費増税(21%)をしてから減収になり益々財政は逼迫しています。反原発デモに参加して自分に酔っている日本人はお花畑としか思えません。

ところで、余談ですが驚いた事がひとつ。この国にはサロンパスとか湿布がないのですよ。いやあ、びっくりしました。

脱原発の末路

>2012-06-19 06:52 | ちびた様

>感情論やマスコミに先導された国民が正しい投票など出来るわけないのです。原発は国防であるという観点が抜け落ちていてお花畑もいいとこです。

言い換えれば、多くのお花畑は原発が動き出せばそれが当たり前だと思いこんでしまいます。なにしろ、自分で考えませんから。あの震災の時も、水を大量に買い込んだ女性が、どうしてあんなことをしたのか判らない、馬鹿だったと言っていたとのこと。みんな枝野プロパガンダ大臣に煽られた結果ですから、煽る奴をひっくり返せばお花畑もひっくり返ります。

>私事で恐縮ですが、昨日妻が事故に遭い救急車で運ばれました。

それは大変でしたね。でも、お話では重大事にはならなかったようで、何よりです。

>原発を全廃してしまった国の実情なんてこんなものです。電気はフランスから買えばいい、機械はドイツから買えばいい、観光だけで食べていけるはずだ!、と思っているのです。経済危機で消費増税(21%)をしてから減収になり益々財政は逼迫しています。

同じ枢軸国で、日独が急速に復興しある意味真の戦勝国と言われているのに、イタリアは敗戦国のままのようですが、あくまで国民の素質によるのでしょう。先の脱原発についても、直前の露骨なローマ法王の干渉が大きく影響しているようで、ヨーロッパでも○○扱いですし。

>反原発デモに参加して自分に酔っている日本人はお花畑としか思えません。

まあ、自分で考えない人はそんなもんです。

>ところで、余談ですが驚いた事がひとつ。この国にはサロンパスとか湿布がないのですよ。いやあ、びっくりしました。

そうですか、外国人には肩こりがないので必要がないのでしょうかね。実際、筋肉痛や打ち身などどうやって治療しているんでしょうか。熱いぬれタオルを当てるだけでしょうかね。

シナ人は入れるな

打ち身は昔ながらの方法で氷を当てて冷やすだけなようです。保冷剤もここでは貴重品です。日本では当たり前のようにスーパーやケーキ屋でつけてくれますが。ホカロンも登山者以外には普及してないのです。ホカロンを体験したイタリア人は絶賛してました。

欧米人は肩凝らないように私も思いました。でも、最近、女の人がマッサージを受けてリラックスしているようなカラー写真の看板と赤提灯を出した店があちらこちらで見られ(特にスラム街)、シナに汚染され始めています。東京でもそのような看板を普通の商店街で何度も見ました。まず、中華料理店、次にマッサージとパターンは決まっていて徐々にその街は中華街化して乗っ取られるのです。たかが中華料理一軒と言っても馬鹿にできません。要注意です。一軒でもシナ人経営に売ってしまったらその街は最後です。

妻が1980年代ニューヨークに行った時、中華街とイタリア人街の勢力は半々ぐらいで盛んにマフィア同士で縄張り争いをしていたらしいのですが、やがてチャイナマフィアの勢力に圧倒されてしまったそうです。数年前に行ったボストンも中華街は栄えているのにイタリア人街は寂れていました(先日たかおじさんも言及してましたがロスのリトルトーキョーもさびしい限りですね)。

シナの人口侵略は恐るべしです。民主党はシナ人ビザ融和策ばかりをとりつづけます。タイトルにもあるとおり、反日民族を留学生だ研修生だと称して血税を使って招き入れる政策は酷すぎます。水源地などの外国人森林買収問題の法案は知らんぷりですし。頭にきます。国が何もしないのなら個人や地域レベルで警戒するしかありませんが限界があります。在日南北朝鮮人が手引きをしているという問題もあります。鮮人が手引きをしてシナ人を日本に入れ侵略しようとする構図は元寇と同じですね。何百年たっても中華+小中華の関係は変わっていませんね。

シナ人は入れるな

>2012-06-19 22:29 | ちびた様

>打ち身は昔ながらの方法で氷を当てて冷やすだけなようです。保冷剤もここでは貴重品です。日本では当たり前のようにスーパーやケーキ屋でつけてくれますが。ホカロンも登山者以外には普及してないのです。ホカロンを体験したイタリア人は絶賛してました。

なんか、酷い発展途上国みたいですね。考えてみれば私がイタリアに行ったときは、スーパーやコンビニに行くなどの機会はありませんでしたし仕事以外の一般人と接触するなど有りませんでした。精々タクシーの運ちゃんにぼられたくらいです。だから、懐炉や保冷剤のことまでは気がつきませんでした。

>欧米人は肩凝らないように私も思いました。

アメリカ人に肩が凝ると説明するのに言葉が無くて困りました。スティッフネックとは言うのですが、それだと首こりですので。

>要注意です。一軒でもシナ人経営に売ってしまったらその街は最後です。

日本でも例えば池袋周辺が支那人のゲットー化しつつあり、かなり問題になっていますね。小さな所でも、マンションに一人支那人が入るとそのマンションがいつの間にか支那マンションになると言われています。

>妻が1980年代ニューヨークに行った時、中華街とイタリア人街の勢力は半々ぐらいで盛んにマフィア同士で縄張り争いをしていたらしいのですが、やがてチャイナマフィアの勢力に圧倒されてしまったそうです。

あ、それは有名な話です。日本でも暴力団が中国マフィアの使いっ走りをしているとか。とにかくやることがヤクザでさえビビルほど徹底してやるので、恐れをなして喧嘩にならないのだとか。

>数年前に行ったボストンも中華街は栄えているのにイタリア人街は寂れていました(先日たかおじさんも言及してましたがロスのリトルトーキョーもさびしい限りですね)。

そうですね。世界中、こんな田舎に、と驚くような所にチャイナタウンが出来ていたりします。

>シナの人口侵略は恐るべしです。

人間の輸出は中国の戦略です。アメリカなどにもかなり影響力を発揮するようになり、ユダヤ勢力を押しのけつつありますね。人間が余っているので、世界中に中国人を出し、その国を支配するのが目的だと思われます。国家動員法などはそのためにありますしね。


>水源地などの外国人森林買収問題の法案は知らんぷりですし。頭にきます。国が何もしないのなら個人や地域レベルで警戒するしかありませんが限界があります。

まあ、国を中国に引き渡すのが今の政権の存在理由ですので。

>在日南北朝鮮人が手引きをしているという問題もあります。鮮人が手引きをしてシナ人を日本に入れ侵略しようとする構図は元寇と同じですね。何百年たっても中華+小中華の関係は変わっていませんね。

本当に進化しない連中です。

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