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宗教について

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 このところ、キリスト教に対し日頃思っている批判めいたことを書いたのに対し、幾つかのコメントを頂いた。特に私が参加しているSNSではキリスト教徒だという方らから、日本の保守系としてキリスト教徒が嫌いなのか、とのコメントを頂き、つくづく宗教を扱うのは難しいと思った。
 
 私は宗教に対しては批判的な面があるし、それはキリスト教に限らずイスラム教、仏教にもある。が、それらを信ずる人々に対しては一切批判などしたことはないし、するつもりもない。信教は個人の問題であり、私がとやかく言うことではないからだ。
 
 私は、これと言った宗教を持ってはいないが、日本人として生まれ当然のこととして仏教と神道の雰囲気の中で育っているから、これらの宗教に大きく影響されているとは思う。たとえば私は輪廻転生を信じているが、あくまで私個人の問題であり、輪廻転生を証明しろと言う問いに対しては、何故?と言うだけだ。私は、自分が輪廻転生を信じている理由など考えたこともない。まして、人に輪廻転生を信じなさいと言ったこともない。
 
 同様、キリスト教徒が、宇宙は神が造りたもうたと信じていようと、韓国人が宇宙は韓国人が造ったと信じていようと一切かまわないと思っている。それぞれ内なる心の世界のことなのだ。いや、私が彼らは何を信じているのだろうと想像する必要など無いのだ。
 
 ただし、それを言動とし他者に影響を与えるとなると問題が生じてくる。私が宗教に批判的なのはそのためであって、特にキリスト教が世界の情勢に大きく関わっている以上、どうしても無視は出来ない。個人の問題ではないのだ。
 
 実は、私のキリスト教との出会いは決して悪い物ではない。幼い頃は、私の田舎ではクリスマスに大規模に何か特別なことをするという習慣がなかった。ただし、クリスマス自体は知られていて、小規模なパーティーなどはあったしプレゼントを貰う楽しみもあった。サンタクロースのおじいさんに、スケートを下さいと手紙を書き、返事にスケートは危なくて怪我をするから、代わりにこれを上げますと、筆箱やノートが枕元に置かれていたのを覚えている。当然ながらサンタクロースのおじいさんが日本語の読み書きが出来るのかという疑問もなく、おじいさんからの返事の筆跡が母と同じであることも気がつかなかった。
 
 そのころ、近所の教会に行くとおやつをもらえるというのが子供達の口コミで広がり、多分何回か行った。確かに歌や遊技を教えて貰い、おやつを貰って、教会とはそう言うところなのだと理解していたと思う。キリスト教の概念など全く理解するはずもなかったが、キリスト教国の子供達はそうやって体の中にキリスト教を染みこませてゆくのだろう。
 
 むろん、国毎に文化があり、キリスト教文化では子供達の身体にキリスト教を染みこませてゆくのは当然だろう。私も自分の体の中に、仏教や神道が染みこんでいるのを感じる。
 
 次に私がキリスト教を概念として実感したのは、ユーゴーのレミゼラブルを読んだときだ。子供向けのダイジェスト版はそれまでに読んでいたが、全訳の世界文学全集 新潮社版の大冊で、その冒頭はミリエル司教の人となりが長々と書かれており、そして、ジャンバルジャンが彼の教会を訪れるところから物語が始まっている。それを読みながらミリエル司教の無限の愛にそれこそ感涙に噎んだものだ。
 
 おそらくキリスト教の精神とはこのような物だろうと今でも思っている。かつて世界各地に使命感に燃えたキリスト教宣教師達が派遣され、未開の地域に神の教えを説くという崇高な使命感に命の危険も省みなかったのだろう。
 
 しかし現実に、彼らの愛の心とは別に、キリスト教の布教が次の欧米による植民地支配の先駆けになった事実は変わらない。中南米のインカ、アステカ、マヤ文明を滅ぼしたのも、キリスト教の神の支配をあまねく及ぼす使命感の故だったのかもしれないし、実際の当時の当地の文明では、人身御供が一般的であったり、世界の終末が避けられない物としての閉塞感があったから、違う価値観をもたらすこと自体は間違いではなかったかもしれないが、ただ、当地の文明を根こそぎ破壊し財宝を奪い取る手段としてキリスト教が用いられたとなると、違う価値観をもたらす等と言うことではないだろう。
 
 崇高な宣教師の使命感とは別に、確かに植民地支配をした方はキリスト教をその手段として使ったのだ。
 
 いや、植民地支配だけではない。古くから民衆の不満を神の支配、御心だと押さえ込んできたのは為政者達でありそのためにキリスト教を用い保護し、そしてキリスト教会も権力に阿り民衆を支配した歴史も事実だ。先頃のイタリアの国民投票の直前、ローマ法王が露骨な介入をし、そしてイタリアで脱原発が採択されたのは記憶に新しい。
 
 そして、アメリカはキリスト教原理主義国家であり、キリスト教の支持がなければ政権をとることも維持も出来ず、アメリカ通貨には、In God We Trustと書かれており、大統領は演説の締めくくりを、God bless you, God bless the United States of Americaとする。
 
 インテリジェント・デザインが教育の主流となる地域があり、宇宙は神が造ったと信ずるアメリカ人が半数に及ぶ。
 
 先に書いたように、人類や宇宙を神が造ったと信じようが韓国人が造ったと信じようがそれは個人の問題だが、それを教育の中に取り入れるとなれば話は別だ。そのように体の中にキリスト教を染みこまされた子供達がいずれアメリカを動かすようになる。というより、今アメリカを動かしている人々はそのようにして育った人々なのだ。
 
 その人達が、キリスト教を染みこまされた思考で世界を観ていないと信ずる方が無理だろう。
 
 良く引きあいに出されるのが、マニフェスト・デスティニーだ。つまりアメリカの価値観を至上の物としそれを規準に敵味方を決め付け、従わない相手を攻撃するというやり方であり戦争には至らないとしても日本はずいぶん標的になっている。
 
 WW2以降のアメリカの戦争で、キリスト教国と戦った例があったかなどは単なる偶然でそうなったと思える物でもない。
 
 どうしても、アメリカの行動が、かつての十字軍に重なって仕方がないのだ。アメリカは言論思想の自由な国と言うことになっている。しかし、その自由はえてして金の力、権力に左右される。典型がロビー活動だろうし、金持ちが雇う弁護士のやり方だろう。
 
 そして、アメリカにもむろん社会主義者も入れ共産党もKKKもいる。法的に保証されているが、それでもアメリカがアメリカ至上主義国家でありその根幹にキリスト教があるのは否めない。
 
 キリスト教が世界に大きな影響を与えたから自然にキリスト教批判になる。神が、黒人の身体に魂を入れて造りたもうた筈がない、とフランスの思想家、モンテスキューは「法の精神」の中こう言っている。
 
 「 《とても賢い神様が、このような真っ黒い肉体に魂、とくによい魂を吹き込んだとは考えられない。(略)黒人が人間だと考えることは不可能である。彼らを人間だと考えれば、我々がキリスト教徒でないことを認めざるを得なくなる》(同、第十五編第五章)。」

1/28 追記

上記のモンテスキューの表現を裏付ける原文がネット上にあったので載せる。確認されたい方はオンライン翻訳などにかけることをお奨めする。上記の文章は意訳されているが、赤文字の部分が、それに該当するようだ。

原文

CHAPITRE V.
DE L’ESCLAVAGE DES NEGRES.

Si j’avois a soutenir le droit que nous avons eu de rendre les negres esclaves, voici ce que je dirois :

Les peuples d’Europe ayant extermine ceux de l’Amerique, ils ont du mettre en esclavage ceux de l’Afrique, pour s’en servir a defricher tant de terres.

Le sucre seroit trop cher, si l’on ne faisoit travailler la plante qui le produit par des esclaves.

Ceux dont il s’agit sont noirs depuis les pieds jusqu’a la tete ; et ils ont le nez si ecrase qu’il est presque impossible de les plaindre.

On ne peut se mettre dans l’idee que Dieu, qui est un etre tres sage(13), ait mis une ame, surtout une ame bonne, dans un corps tout noir.

Il est si naturel de penser que c’est la couleur qui constitue l’essence de l’humanite, que les peuples d’Asie, qui font des eunuques, privent toujours les noirs du rapport qu’ils ont avec nous d’une facon plus marquee.

On peut juger de la couleur de la peau par celle des cheveux, qui, chez les Egyptiens, les meilleurs philosophes du monde, etoient d’une si grande consequence, qu’ils faisoient mourir tous les hommes roux qui leur tomboient entre les mains.

Une preuve que les negres n’ont pas le sens commun, c’est qu’ils font plus de cas d’un collier de verre que de l’or, qui, chez des nations policees, est d’une si grande consequence.

Il est impossible que nous supposions que ces gens-la soient des hommes ; parce que, si nous les supposions des hommes, on commenceroit a croire que nous ne sommes pas nous-memes chretiens.


De petits esprits exagerent trop l’injustice que l’on fait aux Africains. Car, si elle etoit telle qu’ils le disent, ne seroit-il pas venu dans la tete des princes d’Europe, qui font entre eux tant de conventions inutiles, d’en faire une generale en faveur de la misericorde et de la pitie(14) ?  

 これが、ヨーロッパのアフリカ蹂躙、奴隷使役の理由なのだ。特にアメリカは、イスラムのテロを非難し、日本の真珠湾を卑劣だといい、ナチスを人類の敵だと糾弾する。自らの奴隷文化の歴史に対する同じような非難があるだろうか。自省があるだろうか。聞いたことがない。
 
 キリスト教の本来の姿がもしこれであれば、冒頭に私が言った、キリスト教の愛の精神はまやかしであり、またキリスト教が西欧の為政者の道具になっているのであればやはりキリスト教の責任だろう。糾弾されて当然ではないのか。
 
 たまたま、日本仏教は過去はともかく、現在はそのような状態にはない。が、それでも一般人を引き込むためか、多くの仏教者がキリスト教者同様、中核派主催の脱原発運動や、反戦運動に荷担している。やはり堕落だとしか思えず、私も以前糾弾したことがある。
 
 ただ、繰り返すが信教は個人の問題であり、いかなるキリスト教徒も仏教徒も韓流フアンも非難する理由など無い。ただ、その内部の信仰を行動に表し、悪影響を他に及ぼすならば、そこで非難される。
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いつの間に仏教が

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宗教を批判するのはかなり難しい。宗教とは文字通り信仰でありいわば理論を越えた物、つまりは最も純粋な人間の心の問題だと考えるからだ。実際、絶望の淵から信仰によって救われたという人は居るし、またどんなに疑問を持っても最終的には信ずることが宗教だと言われれば、本当は疑問など持っていないのにも拘わらず神を信じてしまうのも事実だろう。遠藤周作の名作「沈黙」などを読むと、信仰という物の力は最終的に人間を完全に支配してしまうのだとつくづく思う。信仰が深くなれば、理性もまたその信仰を根本としてしか働かなくなるからだろう。ヨーロッパがキリスト教離れをしているとの報道があるが、それに反して世界でのイスラム教徒の数が増えているなどと聞くと、結局貧しさや生きにくさから逃れるために、人間は宗教にすがるのだと思う。

かつての日本も宗教を政治に利用してきた。そもそも政(まつりごと)とは、宗教による政治を言う。人間の魂の救済とは別に、宗教が発生時から政治と極めて強く結びつき、相互に利用してきたことは明かであり、現代でもいくつかの国では宗教がそのまま政治となっている。

また、ロシアなどは、かつて激しく弾圧したロシア正教を、今では積極的に政治に利用し、莫大な支援を与えている。このような状況を見ると、宗教を単に個人の魂の救済などとは見るべきではないのかも知れない。実際にキリスト教はかつて植民地経営の先駆けとして派遣され、植民地の住民に白人支配を受け容れる下地を作ってきた。それは彼らがなんと弁明しようと事実であり、それを恐れた日本が鎖国をしてさらに厳しいキリスト教弾圧をしたことが、後の時代に価値観の違いを理由にしたアメリカによる対日排除政策、さらに対日戦争に至るまでになっている。

現在もアメリカは宗教国家であり、キリスト教が政治に対して強大な影響力を持っているのは否定できない事実だろう。だから、大統領は演説の終わりに、God bress Americaと言うのが決まり文句になっているし、アメリカのコインにはIn God we trustと刻印されている。

つい先頃もローマ法王が明確にイタリアの国策に干渉し、脱原発を押しつけた。そもそも原発政策に宗教が介入すべきではないだろう。バチカンはかつてナチスの前身であるドイツ中央党を支援し、ユダヤ人迫害の名目を与えた。今はその歴史に口をつぐんでいるが、バチカンの歴史で、非キリスト教徒からすれば評価できる物など一つもない。

さて、宗教が政治と切り離せない実態は仏教も同じであり、日本も例外ではなかったが今では少なくとも法的にはいかなる宗教も国家との関わりを持ってはならないことになっている。いわゆる政教分離であり、単なる慣習化した宗教行事でさえ、国家や地方自治体が主催したり支援したりすることはない。

が、どうも最近日本の仏教がまたおかしくなっているのではないかと気がかりだ。むろん、仏教信者でも僧侶でも個人としての思想をどのように持とうと自由であり、これも国家が介入すべきではないから、僧侶個人の政治的活動をとやかく言う理由もないし、そのつもりもない。

しかし、次のような記事を読むとかなり違和感を感ずる。

赤文字は引用

もんじゅの名、許されるのか 永平寺の僧が原発シンポ


 曹洞宗大本山永平寺(福井県永平寺町)で修行僧を指導する僧らからなる寺内組織「禅を学ぶ会」が11月2日、「いのちを慈しむ~原発を選ばないという生き方」と題したシンポジウムを開く。生まれ来る命にも思いを寄せた釈迦(しゃか)の言葉を引き、放射性廃棄物という「負の遺産」を子孫に残していいのか問いかける。
 
 これは宗教者として逸脱しているのではないか。僧侶個人として脱原発であろうと推進であろうとかまわないとは思うが、このような組織で国家の政策に関する問題を論ずるのはどうだろうか。たとえば、いかにもこじつけに聞こえるが
 
 「文殊菩薩の智慧(ちえ)は仏教の智慧であり、科学知識とは違う。許される名前ではなかった」と、同会の西田正法事務局長は話す。仏教者として菩薩と世間におわびしたい思いから、シンポジウムを企画した。
 
 文殊菩薩は確かに仏教の概念だが、これは今では広く日本文化の根幹になる共通概念と言ってもいいだろう。なにしろ、日本人の価値観には仏教を源とした物が多くあり、すでに宗教観と言うより日本人の文化そのものと言っても良いはずだ。原子炉に文殊と名を付けることがその価値観からでた物であって、別に宗教的な意味合いがあるわけでもないだろうし、仏教界の許可が要るものでもあるまい。僧侶として気に入らないと言うのであればそれは気に入らないと言ってもかまわないが、組織として脱原発という政策に絡めて言うようなことではないだろう。
 
 そもそも他の脱原発論者とおなじく、脱原発の理論的検証が全く為されていない。子孫に対する負の遺産と決め付ける根拠を示しもせず、ただ、原発は危ない、子孫に負の資産などと言うこと自体極めて無責任だ。それを宗教家の名で行うことこそ、人間の無条件の感情に訴えるプロパガンダとどこが違うのだろう。白人支配を受け容れさせるために宣教師が布教したのと同じではないのか。
 
 敬虔な仏教徒にとって、僧侶の言葉は自身の思考よりも優先させる場合がある。その責任を彼らは取るのか。
 
 同じような懸念が次のような記事によってもある。
 
 日中の僧侶80人が読経・法要、南京で72年前の「犠牲者」追悼

 江蘇省南京市の南京大屠殺同胞紀念館(虐殺同胞記念館)で13日、日中の僧侶80人が平和法要を行い、旧日本軍に虐殺されたとされる犠牲者を追悼した。12月13日は72年前の1937年に、中国の首都だった南京市が陥落した日。
 
 南京虐殺が中国による捏造であることはすでに明らかになっており、国際的にも事実に基づいて検証すべきだとの声が大きくなっているのに、中国は聞く耳持たず、年々増加する犠牲者30万人を以て、日本を糾弾している。
 
 中国は他者の言葉に耳を傾けないし、また他者の言葉に同意することが面子に関わるとのメンタリティーしかないが、そのメンタリティに同調してわざわざ中国まででかけ、南京虐殺事件の犠牲者に追悼する日本の僧侶とはどのような売国奴なか。
 
 知っての通り、中国には宗教の自由など無く、全ての仏教寺院や僧侶は共産党の管理下にある。これはキリスト教なども同じであり、バチカンからさえ中国のキリスト教は認められていない。
 
 それにも拘わらず、中国仏教界、すなわち中共宣伝部隊は積極的に他国の仏教界と交流をし、思想的に食い込んでいる。台湾の仏教界はすでに完全に乗っ取られたとの報道もあるくらいだ。日本でも、時折寺に高価な中国美術品などが飾ってある場合があるが、このような寺院は、中国仏教界からの工作を受けているケースが多い。次回寺に出かける機械があったら、本堂やホールに恭しく中国美術などが置いてないかどうかチェックしてみても良いだろう。
 
 宗教は純粋に個人の魂の救済だ等と信じていると、いつの間にか中国の思想的支配を受けていることになりかねない。南京虐殺は、事実としては否定されているが表向きは日中間で決着が付いていない。そのような状態で、日本の僧侶が南京の犠牲者追悼に出かけ読経するなど、やはり売国僧侶としか言えないのではないか。本人はそのつもりはないかも知れない。が、それ故に罪は深い。

 ちなみに、中国側の南京虐殺についての認識は、中共の主張そのままであって、自由な討論などあり得ない。このような国と、南京虐殺が事実であったかなかったなどの論争など意味がないのだ。彼らの主張に反論する意味すらない。全て彼らの嘘であり捏造であり、だからこそ、国民に対してさえ自由な論争を許さないし、そもそも自由な情報収集も許さない。つまり、彼らの主張は全て嘘なのだ。

日中共同研究「南京事件は反人道的虐殺」…中国で「対日罵詈雑言」

  中国メディアは28日から29日にかけて、日中が共同で進めている歴史研究で、日中戦争中の1937年に発生したとされる「南京事件」を、「反人道的な虐殺事件」と位置づけることが、両国研究者の共通認識として確立したと伝えた。
  
  日中両国研究者といっても金で買われた研究者も大勢居る。そんなものが日中両国の合意であるはずもなく、中国人の学者でも南京虐殺は嘘だという意見もある。その主張が日中合意ではなく、南京虐殺があったことだけが日中合意だと公表すること自体がどれだけいかがわしいか分かるだろう。
  
  
上記に引用されているURLの記事を読む場合は下記の「続きを読む」をクリックしてください。但し、内容確認以外なら、敢えて読む必要はありません

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もう一つの脅威

 日本で文化的侵略とか、民族関連の脅威といえば、特亜がまず思い浮かぶが、宗教的対立となると、一般の日本人にはあまりぴんと来ない。日本人には強烈な宗教意識がないからだろうが、分類上は日本は仏教国とされ、それも国民の90パーセント以上が仏教徒と認識されている一大仏教国なのだ。
 
 とはいえ、定期的にお寺に行って仏前に手を合わせたり僧侶の説法を聞く日本人はそれほど多くないと思われる。が、それでも日本は間違いなく仏教国、それもおそらく世界一仏教が生活に根付いている国の一つではないだろうか。国民がそれを自覚することもなくなっているほど浸透しているという意味だ。
 
 日本では仏教関連の一般向けの本が結構頻繁に出版され、それが一応にかなり売れているし、般若心経の数行でも暗唱できる人も多いし、写経も根強い人気がある。日本が無宗教国家といえば、絶対にそうではないと思うし、漠然と地獄極楽や死ねば仏(まあ正しいとは思えないが)などふつうに受け止められているし、仏像展があれば大勢の人が詰めかける。
 
 一方、神道も日本人の精神形成にきわめて大きな影響を与えていて、主として自然との関わりや穢れ、罪に対する認識など日本人特有のものがあるが、当然日本にいては気が付かない。だが、外に出てみると、日本人のものの考え方が非常に穏やかで優しいものであることに気が付くが、もちろん、長い間に培ってきた文化によるのだろう。そして、その文化の形成に神道が非常に大きな役割を担ってきたと思うわけだ。
 
 したがって、日本は仏教国であると同時に、日本独自の宗教である神道国家であるといえよう。二つの宗教がきわめて密接に結びついて、仏教とは言いながら他国の仏教とは非常に異なった仏教であろうと思われる。なにしろ、八幡大菩薩とか七福神とか、もう仏教とも神道とも(ついでに道教など)ミックスした信仰対象があるし、寺の中に神社があったり、同じ家に神棚と仏壇があり、正月には人々は寺と神社をはしごする。
 
 ただし、その日本人が宗教をきわめて自由におおらかにとらえているのは事実で、だからこそ宗教を意識していないほど生活に染みついていると思うわけだ。なにしろ、クリスマスで大騒ぎをし、バレンタインデー(こうなると聖バレンタインなどもう無関係だろうが)、近年ではハロウィンなどもやるようになった。タレントも、そしてそれをまねした一般人もチャペルで結婚式を挙げ、ホテルでは全く形ばかりのチャペルを造って目さえ青ければ俄牧師になれる外国人の良いアルバイト先になっている。こうなると、キリスト教への冒涜ではないかと思うが、そんなことは誰も気にしない。
 
 あるタレントが結婚は神式ですか教会ですかと聞かれ、どっちが良いかまだ迷っているけれど、彼がハワイの教会でっていうのよねぇ・・と答えていた。彼がお寺で、といったらどこかのお寺で結婚式をやるのだろう。ノー天気といえばそうだが、おそらくこれが不思議に思われないのは世界でも日本くらいではないかと思う。
 
 それでも、日本は仏教国であり、日本中どこに行っても必ず寺院があり、そしてそれよりは少ないが神社がある。教会は探さなければ見つからない。
 
 私が住んでいる地域は別に日本でも特殊な地域ではないが、徒歩の散歩コースに10軒以上の寺院がある。・・・今チェックしてみたら、半径1キロ内に12軒あるようだ。ただし、一つ大きな寺院がありその周辺に同じ宗派の寺院が固まっているので、それを入れると20軒は優に超す。
 
 日本の地域によっては寺町と言われる地域があり、とにかく寺院が数十軒軒を並べている。かつて仕事で来日した外国人とそんな場所に行き、日本がこんな仏教国だとは思っていなかったと驚いていた。たしかに、私が訪れた海外で、教会やモスクがこれほど密集している国はないようだ。あるかもしれないが、私は見たことがない。
 
 また、海外に行くとき入国時のカードに宗教を記入する欄があり、ブッディズムと書いていたが、NILなどと書くと、テロリスト扱いされると脅かされたからだ。NILと書いたことがないのでテロリスト扱いされたことはないが、あながち嘘ではないようだ。
 
 やはり外国で、宗教を信じていないというのはちょっと勇気が要る。それでも、欧米では若者のキリスト教離れが著しいとは言われているが。
 
 いつもの癖で長々と前振りを書いたが日本は宗教的にほぼ一色であり、しかも仏教も神道もきわめて穏当な宗教であるがために国内で宗教対立がない。また他国とも宗教対立がないので、日本人は宗教による戦争を認識したことがない。
 
 だが、世界ではこの宗教対立はきわめて深刻であり、特にキリスト教とイスラム教の対立は実際に何度も戦争に発展しているし、また同じキリスト教、イスラム教内でもセクトの違いで血を流し合っている。日本で、日蓮宗と禅宗が武器を取って戦争をするなど想像もできない日本人にとっては、所詮宗教戦争など人ごとだと感じている。
 
 確かに今まではそうだった。しかし、いつまでもそう感じていられるのかは菅が手見る必要があるのではないか。
 
 今、私たちが宗教がらみで国際紛争を考えるとき、イスラム圏とキリスト教圏の軋轢を考えるし、イスラム原理主義者によるテロリズムも宗教がらみだと考えているから、イスラム教と敵対していない日本はそのらち外にいられると言うことだ。だが、仮にそうだとして、イスラム原理主義者が海外で戦争を起こせば、嫌でも日本も影響を受ける。中東戦争で原油が高騰し、日本が打撃を受けたのもその例と言えるだろう。今後、このようなケースが広い地域で起きてくるだろう。
 
 なにしろ、イスラム教徒は世界中で増え続けているのだ。むろん、イスラム教徒が増えること自体が問題なのではない。かつて多くのイスラム教徒と知り合ったが、過激な人物は出会ったことはないし、またイスラム教も相互補助を重んじた宗教でありまたイメージとは違いきわめて寛容な宗教といえる。
 
 私自身はイスラム教徒ではないが、イスラム教自体に悪感情は持っていない。しかし、そのイスラム教の拡大につれ、原理主義者達の活動範囲も広がっているの事実であり、また、イスラム教がその相互補助の精神故に途上国の、特に貧困層を中心に広がっていることが、また原理主義者達の付け入る条件に当てはまっているのではないか。
 
 残念なことに、途上国の貧困層は教育でも置き去りにされており、また政府の独裁の一番の犠牲者になり勝ちであって、そこに原理主義が付け入っているのだ。
 
 それと、イスラム教が広がってゆくもう一つの理由は、イスラム教徒は異教徒との婚姻が禁じられているので、たとえば日本でもイスラム教徒と結婚した人は必ずイスラム教に改宗するか入信している。つまり、イスラム教の教義を理解しないままイスラム教徒になる人が多いと言うことだ。さらに、イスラム教の家庭では、当然ながら生まれながら子供にイスラム教育を施すし、他宗教への改宗や棄教など認めない。彼らには信教の自由などという概念はない。
 
 アフガニスタンからソ連が撤退した後全土を支配したタリバンは、最初の内こそ世界でも好意的に見られていたし、またタリバンも特に世界に対して敵意を持っていたわけではない。しかし、あまりに教条的な支配から人権抑圧が非難され、結局アメリカの攻撃に合ってから、完全なテロリスト集団になってしまった。
 
 アルカイダも、イスラム教の教義より、むしろ人々の不満に取り入りそれら自分たちを圧する存在に対して暴力で立ち向かう、いわば共産主義の暴力性と同じ手法で広がっているのだ。共産主義自体は暴力とは関係がないが、その実現のためには暴力は正当化されるとしたのが実際の共産主義者達であり、レーニン、毛沢東、ポルポトなどがその実例といえる。
 
 イスラム原理主義者も、本来のイスラム教を暴力による支配の手段として用いているから問題なのであり、そして実際に差別され不満を鬱積させている人々に受け入れられるから、問題なのではないのか。
 
 もともと、教育レベルが低く、抑圧されたイスラム教社会には確かに問題が多い。一番の問題は、本来神の意志を伝えるべき聖職者達が、それを権力維持のために使う傾向が大きく、さらにそれが教育のない人々には批判無く受け入れられる。
 
 最近、このような記事があった。
 
《》は引用

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いとこにレイプされた14歳少女、公開むち打ち刑で死亡

2011年02月06日15時45分

バングラデシュで、40歳の既婚のいとこにレイプされた14歳の少女がむち打ち刑に処され、その後死亡した。

 報道によると、少女は前月30日にいとこの男からレイプされた。しかし、少女は逆にこの男と不倫関係にあったとして男の家族から殴りつけられた上、イスラム法(シャリア)に則り、村の調停役からむち打ち刑100回を言い渡された。

 少女の刑は公開で実施された。むち打ちが80回を数えたとき少女は意識を失い、病院に搬送されたが、その後死亡した。

 少女の父親は英BBCに対し、「いったいどんな正義なのだ?正義の名のもとに娘は打たれて死んだ。きちんとした裁判所なら娘は今も生きているはずだ」と怒りと悲しみをあらわにした。

 BBCによると、事件に関連し、イスラム教の聖職者1人を含む4人が逮捕された。地元警察は事件に関与したとして、さらに14人の行方を追っている。

 同国の高等裁判所は前年、イスラム法による処罰を違法としたが、処罰は後を絶たず、死者も出ている。前年12月には40歳の女性が義理の息子と性的関係を持ったとしてむち打ちの刑に処され、死亡している。(c)News Desk/GlobalPost.com/AFPBB News
 
 このような例は非常に多い。
 
 このようなこともあった
 
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51才の男性にレイプされた16才の少女が死刑

 イスラムの法律である「シャリーア」によると、死刑に相当する罪は大きく3種類。殺人、麻薬密輸入、そして婚外交渉、だそうで。少女が死刑にされた理由は「姦通」の罪と言うことですが、もちろん結婚なんてしていないわけで。このことは出生証明書と死亡証明書の双方が揃っていることから証明されており、これがきっかけで調査が行われたそうです。

彼女は13才の頃にパーティに出席した際、自動車の中で少年と2人きりでいたという理由で「道徳警察」によって「純潔に関する犯罪」で逮捕され、刑務所で短期間ではあるが放り込まれ、むち打ち100回の刑を受けたそうです。

また、刑務所からの釈放後、彼女の年の3倍と同じくらいの年齢の男性から暴行を受けていたそうで。それが、Ali Darabiという既婚で子どもがいる51才の男性。この男から数回にわたってレイプされていた、とのこと。

彼女はこの事実を警察や家族にも言わず、結果として再び道徳警察によって逮捕されたそうです。

さらに追い打ちをかけるようにしてとんでもないことに、彼女が不道徳の原因であり、地域の同年代の少女に対して悪影響を与えている、という申し立ても地元民によって行われたそうです。

逮捕されてから3日後、彼女は裁判にかけられ、この段階にいたってついにレイプされた事実を告白したのですが、年齢を考えると、レイプされたことが証明できなければ彼女の罪となり、そしてレイプされた事実を証明することがイランの法廷では極めて難しく、さらに男性の証言の方が女性の証言よりも重視されるため、絶望的状況となりました。

彼女は自分の主張が全く受け入れらないため、裁判官に叫んで訴え、挙げ句の果てにベールを脱ぎ捨てたそうです。その行為が致命的な打撃となり、彼女には死刑が宣告されました。翌朝の午前6時、絞首刑となりました。

彼女の死刑は家族には通知されず、裁判所の記録によると彼女の年齢は「22才」ということで処理されたそうです。一応イランもいろいろな国際法に批准しており、18才以下の場合にはイスラム法を適用しないとなっているのですが、それを無視するために「22才だ」ということにしたようです。22才という年齢は裁判官が彼女の体を見て決めたそうです。

ちなみにレイプした男性の方は95回のむち打ち刑で済みました。

 もともと、イスラム教において女性差別は、他から見れば容認しがたいものがある。たしかに一夫多妻は、戦争未亡人の生活を保障するための制度という面があるが、もともと、女性が社会的に自立することを認めていないことも大きな理由だろう。またよく知られているが、良きイスラム教徒は死後天国で東西の英雄とともに晩餐の席に侍り毎夜処女が相手をしてくれるのだそうだ。そうなると、良きイスラム教徒の女性の死後はどうなるのか考えてみたくなる。そして、イスラム原理主義国家では確かに女性の職業や教育は大きく制限されている。そのような土壌では、上のような事件も起きるだろうと想像できる。

 むろんこのような例には、世界中のイスラム教徒からも非難の声が挙がっているし、またすべてのイスラム国家がこうであるわけではない。トルコは世俗主義を取り、イスラム教と政治を完全に分けているが、近年トルコ内部の様々な不安定要素からイスラム原理派が勢力を伸ばしている。インドネシアは世界で一番多くのイスラム教とのいる国だが、今のところやはり世俗主義を採っている。しかし、やはり国内では原理主義の危険性が常にある。
 
 アメリカにも近年イスラム原理主義者が増えてきており、最近のテロ未遂事件ではアメリカ人のイスラム教徒が犯人として検挙されているし、またモスクワ郊外の飛行場で起きた自爆テロは、ロシア軍に夫を殺されたイスラム教徒女性が犯人だとされている。
 
 ロシアが軍事的圧力を加えている国々にはイスラム教国家が多く、そのため原理主義者達がロシアに対する抵抗の手段としてイスラム教を使っているのが大きな問題になっているのと、世界のイスラム教国家ら正式にそのテロリズムに対する非難がないのだ。今後、ロシアはイスラム原理主義との戦いに相当手を取られ、これはアメリカもイスラム教原理主義者の敵になってしまっているので同じような問題に今後ますます悩まされてゆくだろう。
 
 そして、もう一つ私たちと無縁ではないと思われるのが、中国のイスラム教徒の問題だ。中国でチベット同様弾圧されているウィグルはイスラム教の地域であり、中国は宗教を認めない共産党であるから、ますますイスラム原理主義の敵意を受けやすいと思われる。
 
 実際、この問題は中国にとっても致命的になりかねなく、非常に神経質になっているようだが、公表されないイスラム原理主義者によるテロリズムが頻発しているのではないかとも噂されている。ただし、お国柄、すべて秘密裏に処理されているだろうし、イスラム教徒ではなく、単なる暴動で片づけられているのかもしれないが、様々な状況、すなわち資産でも教育でも差別され弾圧されている中国のイスラム教徒に原理主義者が目をつけないはずがない。これが、中国内部からの破綻の原因の一つになる可能性は考えておく必要があるのではないか。
 
 今のところ、日本国内のイスラム教徒は0.3%だそうだが、ほとんどが外国人と、外国人と結婚した日本人とのことだ。それに、日本ではイスラム教徒が弾圧されている事実もないので、日本における彼らの暴動はないだろうが、ただ、中国の破綻は我々に採って無関係ではないし、それに日本にその余波でイスラム教徒が急増するのも問題ではないかと思える。




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