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言語の優劣

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世界には言語がどのくらいあるのかは不明だが、少なくて一千二,三百、多ければ二万種類程度があるとされている。発見されていない未開地の言語とか、既に消滅した言語、あるいは独立した言語か方言かが明かではない場合などがあり、実際に数えてみても仕方が無いだろう。

ただ、現在世界で話されている言語の母国語話者数は次のようになっている。


1位 中国語      12億9900万人
2位 スペイン語 4億4200万人
3位 英語       3億7800万人
4位 アラビア語 3億1500万人
5位 ヒンディー語 2億6000万人
6位 ベンガル語 2億4300万人
7位 ポルトガル語 2億2300万人
8位 ロシア語 1億5400万人
9位 日本語       1億2800万人

まず、中国語やヒンディー語、ロシア語は結局一つの民族しか話さないが、絶対数が多いから話者数が多いことになる。それは、日本語も同じことだ。

スペイン語、英語、ポルトガル語などは植民地化した地域が自らの言語を捨てて宗主国の言語にしたものだ。アラビア語もそれに近いが、むしろアラビア人が昔コーランを片手に世界に広がった名残ではないのか。

ところで、言語とは異なる言語が混じり合うことはざらにあり、英語のほとんどの単語はフランス語やドイツ語と同じだ。ただ、綴りが若干違うのと発音が大きく違い、さらに意味が大きく異なっている物が多くそのままでは通じないが、紙に書いて示せば大体の意味が分かるようだ。つまりは、これらの言語は印欧語のそれぞれの方言が分離して異なる言語になったのであって、元々は同じ言語だった。だから、欧米の人間は複数の言語を操る者がそれなりにいるがもともと近い言語なので学びやすい。

それは日本人が中国語を聴いても理解できないが、文字を読めばかなり分かるような物だろう。現に漢文を学べば相当理解できる。ただし、近代中国語は文字を破壊してしまったので昔ほどではないが。しかし、かつての大和言葉はほとんど中国語からの外来語に置き換わったり、そもそも時代の変化によって消えてしまった。それはラテン語が今では全く使われていないのと同じことであり、言語とは常に変化している物だ。実際、近代中国語の七十%が日本語由来だ。

ただ、どの言語が一番優れているのかはむろん誰にも分からない。母国語と同等に外国語を使いこなすいわゆるバイリンガルが居てもせいぜい二,三カ国、多くて五,六カ国語位を使いこなす人間入るかも知れないが、正確に言語を比較するなどは不可能だ。ただ、明かなのは、上記に上げた言語はほとんどが現在、あるいはかつて文明の頂点にいる、いたことだ。つまりそれらの文明を創り上げ支える能力がこれらの言語にはあったと言うことだろう。

前にも書いたことがあるが、以前二人のアフリカ人が彼らの母国語で会話をしながら時折完全な英語のセンテンスを入れているのが不思議で、何故か訊いたことがある。単語なら外来語の英語を話しても不思議ではないが文章をそのまま英語で話すなど理解できなかったからだが、彼らの答えは、自分たちの言語では表現できないことがあるので、それは英語を使うとのことだった。

人間は言語で物を考える。と言うことは言語で表現できないことは考えられない事を意味する。かつてアジアアフリカ諸国が欧米に植民地化され強制的に宗主国の言語に変えさせられたが、彼ら自身の言語では文明を作り高めることが出来ないのだ。

ー 続く ー


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元号

新元号が「令和(れいわ)」に決まった(??令和を辞書登録しようとしたら、すでに登録されていますと表示が出た。ネットから自動的に登録?)。従来元号は中国古典から採られていたが、今回は日本の古典万葉集から採られたとのこと。もともと万葉集は日本最古の歌集であり、天皇から庶民までの歌が集められている日本文学の代表的な古典と言っても良いだろうがそこから採られた言葉という意味も大きいと思う。もともと漢字は中国から来たのだし、日本は中華文化圏だから同じ事だという意見もあるが、私はあくまで日本人の精神で作られた歌集である万葉集から採られた意義は大きいだろう。

今回はかなり前から改元の事は知らされていたが、今まで平成が当たり前だったのが来月から令和になる。違和感なく慣れるかなとは思うが、昭和から平成になった時も別に問題は無かったから、今回も問題は無かろう。

ところで、元号は中華文化圏ではかつて普通に採用されていたが、今では日本だけのようだ。

そもそも、西暦もイエスキリストの誕生が基だろうし、それなら日本の皇紀も構わないはずであり、実際に世界には西暦を使わない地域もある。とはいえ、世界規模で記録をしなければならない時代、西暦を廃止する意味も無いが、日常生活において元号と併用することで日本という国を意識していたいとは思う。世界では西暦以外の紀元を使用している国はかなりあるが、ただ、国家元首の代替わりなどで紀元を頻繁に変える国は日本だけだ。かつては日本では天変地異でも改元が行われていたから、日本の改元とは世の中を改めるという意味もあったはずだ。

ところで早速この元号にいちゃもんを付ける者達が居る。事務的に無駄だ、わかりにくい、外国人が理解出来ない、コンピューターが困る云々。。事務的に不便だというのはある程度分かる。確かに、昭和や平成のある年が西暦で何年に当たるのかはわかりにくい。だから西暦に統一すべしと言うなら、それなりに意味があるし、実際に公文書に元号を書く書式は減ってきたという。しかし、令和の中にアベという文字が隠されている、命令の意味がある、違和感がある、スターウォーズにレイワ姫が居たなどなど。廃止すべきだなどなどよくまあ屁理屈を持ち出す物だとあきれるが、屁理屈ならどんな物にも付けられる。また日本国民全員が諸手を挙げて賛成しているわけでもないだろうが、ただ世界でも例のない日本の伝統であり、多くの日本人が支持しているなら、屁理屈を持ち出す意味も無いだろう。外国人への配慮は関係が無いはずだ。単にケチを付けたいだけのことであり、本題と関係の無い枝葉末節にケチを付ける者はどこにでも居る。隣には存在意義がそれしかない国もある。

元号に限らないが、日本は外から見れば本当に不思議な国のようだ。確かに古い国であれば古い伝統文化を持っている国は沢山有るし、西欧にも古い文化を守り維持している国が普通と言って良い。とは言え、伝統文化として保存しているのであり、日常生活とは関係が無い。一方、日本では和服が普通に見られるし、浴衣などは珍しくもない。生け花、書道、そろばんなどは今も普通にあるし、花見なども伝統行事とすら意識されていない。短歌、俳句はどこにでもサークルがあり新聞ラジオなどの投稿は当たり前、宮中歌会始はもう何百年の歴史を持ち、万葉集や源氏物語の新訳などが繰り返し出版されたりしている。意識しないレベルで日本では伝統が近代と混在している。このような国は他には見当たらない。公文書なども元号が使われることは減ってきたが、日常生活で使い続けることは一つの文化継承として大切にすべきだと思う。

中国などは伝統行事や週刊を徹底的に破壊し尽くし、近代になってから慌てて形だけ復活したりしているが、その形式を日本から持ち出したりしている。中国の古典を中国人が神田神保町あたりで買いあさっているのはよく知られた話だ。韓国などは最初から中国の模倣しか無いし、今でも伝統建築などを復元すると言いながらとんでもないでたらめで笑われている。だからこそ、あれもこれも韓国起源だなど馬鹿なことを言うしか無いのだ。

話を戻して、元号なども日本が日常生活に溶け込ませている伝統と言って良い。伝統は一度廃止してしまえば、仮に復元してもそれは伝統ではなく伝統の模倣でしかない。その意味で中国にはまともな伝統などない。

あと途上国などでは近代化出来ないので伝統とは名ばかり古くさいやり方しか出来ない。

あくまで近代の最先端を駆使しながら伝統と共存させている文化は私の解釈では日本だけのような気がする。パリにもロンドンにもローマにも古い物はある。が生活様式の中で古い物がそのまま使われているケースは、その地で外国人の私には見えないのかも知れない。

元号のことから伝統を持ち出したが、日本が元号を使い続けるにはそれなりの下地がある、国民の意識があることを言いたいのだ。



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改めて日本語

今まで何度か書いたことをまとめてみたのだが、日本語の特殊性を考えても実はよく分からない。なにしろ、私は日本で生まれ日本語を最初に覚え日本語を母国語として育ってきたのだから、他言語と客観的な比較など到底出来ない。英語はとりあえず日常会話ではほとんど不自由を感じないと思うし(あくまで自分では)、読み書きも特に問題は無いと思う。お世辞ではあろうが、米国人にもYou speak very good English. といわれるが、無論外国人としては上手だというくらいの意味だ。

それでも頻繁にコミュニケーションに困ることがある。元来物を考えるのは誰もが言葉を自分の脳の中で組み立てて行っている。むろんイメージを使う場合もあるが、あくまで主たる思考の道具は言語だ。当然ながら英語で会話をしている時は英語で物を考えているのだが、外国語である英語で考えるのと母国語である日本語で考えるのとでは全くその範囲や深みが違う。母国語と外国語では当然だろう。

ただ、それを除外してもやはり日本語での表現が英語では出来ないことは多々ある。単に習熟度の違いではなく語彙数の差ではないのかと思う。まず、語彙数だが、言語にどれだけの語彙数の違いがあるかはなかなか比較は難しい。なにより、言葉は時代により年代により時々刻々変化するのであり、親子ほど年齢が違うと使う言葉もまるで違う。したがって、単に語彙数を比べても意味はない。

あくまで参考値だが、ネットに各国語を90%以上理解するのに必要な語彙数は

フランス語・・・2000語
英   語・・・3000語
ドイツ語・・・・5000語
日本語・・・・・10000語

というのがあった。色々ググってみたが大体似たような数字だが、あくまでそんな感じだ位の根拠しか無い。しかし、頷ける理由が一つある。日本語における同義語の多さだ。

相手を指す二人称は,英語ではyou一つ、フランス語はvousとtu、ドイツ語はSieとduのみであり、日本語ではいくつあるか私も知らない。とにかく思いつくままに挙げてみても、あなた、君、あんた、お前、てめえ、貴様、そちら位か。むろん、探せばこの数倍はあるだろうが、日常では私の場合、あなた、あんた、君、お前、そちら様くらい、口には出さないがてめえ、貴様くらいは使っているかも知れない。当然それらの使い方は相手との関係、状況、感情により使い分ける。当然、その主語に見合った言葉を組み立てて文章を作る。あなたがおいでになりました、と貴様が来やがった、では基本相手が来たという意味だがそれを使う状況は天地ほども違う。この言い回しが出来るのは知っている限り日本語だけだ。

試しに、「あなたはおろか者です」、と「てめえは馬鹿野郎だ」をgoogle翻訳で訳してみたら前者がYou are a fool、後者はTemee is a fool.だった。

それはさておき、この相手との関係、その時の状況、感情などにより言い回しが全く異なるという日本語の特徴は、そのまま思考だけではなく感情も表現できるという意味で極めて表現力が高く、言い換えればそれだけ豊かに思考できるという事だろう。

腹を立てた時にとにかくf**kとしか言えない英語よりはよほど言語として豊かであり機能的に優れていると思うのは、何も私が母国語としている日本語だからではない。

日本文学を外国語に翻訳する時、最も苦労するのはこの点だと聞く。私自身文学を翻訳したことはないが、ビジネス文書を訳す時はあくまで標準の日本語を訳すだけなので特に苦労はなかった。が、英語で小説を読む時などは、結局この表現がないために何となく物足りない思いをすることはあった。ただし、英語は私の母国語ではないのだからその限度があることは否定しない。

日本にも極めてなめらかに日本語を話す外国人がいる。むろん母国語並みに身につけている人は別だろうが、普通に日本語を話せる人でも丁寧語から罵倒語まで使いこなせる人は観たことがない。一方米国人が荒れ狂ってわめいているのを英語で聴いていても意味は分かる。上に書いたように、文章でも、状況から登場人物が荒れ狂い罵っている、あるいは狂喜乱舞していることは分かるが、あくまで状況からであって会話文から理解しているわけではない。但しf**kの連発などの特徴は有るが。

日本語の特徴を挙げてみると、日本文化、日本の価値観がこの言語と大きく関わっていることがよく分かる。日本文化は曖昧だと言われるが、日本語で考える日本人だからその曖昧な文化を発達させられたのだと理解すれば何故日本文化が、という疑問が晴れる。

日本語は文法はむしろ簡単だが、それでも語彙が圧倒的に多いのは、明らかに同じ意味を状況、感情、相手との関係によって言い換えているからだろうし、それが外国人には到達不可能な文化を創り出していると思っている。仮に言葉を理解してもそれを使いこなすためには生まれた時からそれに浸っていなければならないからだ。

表面上はともかく、日本語を母国語としない者にとって、文化の本質を理解するのは難しい、特に一国家で築き上げたという日本文化と他の文化との融合は無論、真の理解は難しいとつくづく思う。それでも、結果として良いものならそのことは認めるべきだとは思う。むろん、日本人が他国の文化をそのように認めることも必要だ。ただし、某国のようにいくら認めようとしても何もなく結果も悪い場合は無理して認めることはしてはならないが。



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歌会始の儀

 本日一月十四日、恒例の歌会始の儀が宮中で執り行われた。
 
 考えてみれば、このような儀式が連綿と受け継がれていることは、きわめて希有なことであり、世界で唯一と言っていい。歌会始の最初の記録は千二百六十年代、亀山天皇の頃にすでに行われていたというから、七百五十年もの間、続いていると言うことだ。
 
 そもそも、世界には日本の天皇家ほど、というより七百五十年間も続いている王朝は無い。世界には現在27の君主制国家があるが、日本の次に古いとされているのはデンマーク王国だ。だが、現デンマーク王室も、いくつかある歴史上の最後の王室と言うことで、6世紀まで確実にさかのぼることができる皇室のように系統が続いているわけではない。
 
 国家としても大半の国はこれほど長い歴史を持っている所はほとんど無い。もちろん、日本ほどではないにしろ、数百年程度の歴史を持つ国はあるだろう。それなりに古い伝統を引き継いでいる国もあるだろう。が、これほど長く連綿と文化を伝えてきた国はない。日本の隣には5千年とか半万年の歴史を自称している国があるが、そこに人間が居ただけで、別に文化を伝えてきたわけではない。それらの国の歴史は、60年あまりであり、それ以前の文化を破壊して、むしろ、その記録は日本に残されているのが現状だ。
 
 考えてみれば、日本とはつくづく特殊な国なのだとの感慨を持つ。ある文化が芽生え、それが一定の範囲で広がると、現代まで一度も途切れることなく伝えられている例が多い。古くは、雅楽、舞楽、能、狂言、歌舞伎、様々な形式の長唄端唄新内、様々な形式の詩、絵画、工芸、茶道、華道、書道、香道、武芸、楽器、舞踊、衣服、食べ物などなど、挙げれば切りの無いほど多くの日本文化が今に伝えられ、さらに海外から様々なものが入ってきているのに入れ替わることもなく、時に影響を与えながらも実際に人々が親しむものとして存在している。
 
 このようなことは実はきわめて珍しい。他国にも古い文化はあるが一部の記録にとどまっていたり、実際は継承している人間が居ないなどのケースの方が多い。衣服一つとっても、和服は普段の生活の中にきちんと生きているが、半万年の歴史を誇るはずの隣国ではそれらが失われ、いまでは似ても似つかぬ復元民族服が特殊なケースとして着られているだけだ。料理も、現代まで途切れることなく伝わっているわけではなく、一度途切れたものが民族の看板として復元されているにすぎない。
 
 ヨーロッパでも大体似たようなものだが、たとえば楽器でも確かに古い楽器などがあっても、日本の三味線やことのように、日常的に演奏するために多くの人々が習得しているわけではないし、それらの楽器を作るメーカーもきわめて限られている。
 
 別にこじつけているのではなく、これは世界でもよく知られた事実だが、日本はきわめて長寿企業がひしめいている国であり、百年二百年の歴史を持つ企業など珍しくもない。数百年企業が、未だに昔と同じ製品を作り続け、同時に改良を重ねて現代の最先端の製品を作っている。
 
 具体的な例としては業歴200年以上の世界の長寿企業は7212社あり、そのうち日本が3113社(4割以上)で2位はドイツの1563社ということになっている。しかし、1000年以上の歴史を持っている国は日本には19社とのことだが、それは世界ではまだあまり知られておらず、たとえばフランスのワイン醸造会社が日本の法師旅館の次に世界で古い会社ということになっている。しかし、日本の法師旅館は創業712年であり、1300年続いている。二位のフランスの会社とは極端にかけ離れた歴史だ。また金剛組は、一度倒産しかけたが未だに存続しているので、創業578年だから、1433年の歴史というわけだ。
 
 したがって、日本の天皇家も、神話時代は別として、一度も途切れることなく続いているから、当然宮中行事も途切れることなく続いている。これが特殊だというのだ。
 
 古いから尊いわけではない、古いものは新しいものに入れ替わるのが自然だと主張する人間には、日本がなぜ近代国家として、世界でもトップクラスなのか(これについては当ブログで何度も書いており、数字で表した客観的なデータでも、間違いなく日本は世界のほかの国々から背中も見えないほどの近代国家だ)、なぜ世界でも技術科学国家として認められているのか理解できない。古いものを活かしながらその上に積み重ねてきたから今の日本があるのであって、古いものを簡単に捨て新しいものを取り入れても自分のものにはならない。
 
 古いというのと伝統があるというのは別だ。単に古いだけならどこにでも転がっているが、伝統とは時間をかけて磨き上げてきたものなのであり、一度途切れたり捨てられたりすると、二度と手には入らない。復元しても結局は一から始めなくてはならないのだ。
 
 その意味で、世界でもトップクラスの技術を持っていながら世界で最も古い伝統を引き継いでいる日本という国の特殊性、価値を私たちは本当に理解する必要がある。
 
 日本文化のもう一つの特徴としては、無駄を省いて洗練させその中に機能や美を生み出している点だ。ヨーロッパや中東、中国やインドなどの古い宮廷文化や宗教建築はどうやって作ったのかもわからないような華美なものが多い。とにかく飾り立て豪華に作り上げることで、権力の大きさを示し、宗教の崇高さを示すことに腐心している。それは、写真で見るだけでもわかるし、現地を訪れると、よく人間がこれだけのものを作ったと確かに感心する。
 
 むろん、それが彼らの文化を創り上げたことは事実であり、否定するものではない。一部の権力者の贅沢のために庶民が血を流した面もあろうが、また庶民に金が再配分された面もあり、すべてを否定することも間違いだろう。
 
 だが、彼らの宮廷建築、宗教建築、そして富豪達の豪奢な生活を見ると、日本の宮廷、富豪達、宗教建築などがきわめて質素であることがわかる。日本の朝廷文化も、西欧や中国インドなどに比べれば、非常に質素であり、いわば地味なようだ。だが、決して貧弱ではない。とにかく無駄を省き簡潔の中に機能や美を見いだし、そして決して華美ではない支配者の権力を庶民もきちんと認めていたのだ。そこが西欧などとは大きく違う。
 
 日本の朝廷はむしろかなり貧しく質素であり、何度も幕府から援助を受けている。しかし、どんなに幕府に財力があろうと、朝廷を軽んずることはなかった。常に朝廷の家臣であることを誰もが疑わなかった。また大名といえども、かなり困窮し豪商に金を借りたり、一部の豪商、豪農達は大名をもしのぐ財力を持っていたが、それでも武士階級の下であることを自ら認めていた。だから、朝廷も武士階級も、財力や華美な様式で権力を示す必要がなかった。
 
 世界でも華美な文化はいくらでもあるが、簡素なものに美を求める文化は、ようやく近年になって西欧でも理解されてきた。日本は千年以上も昔からそうだったのだ。日本がこのような面でも突出した近代国家であり、意識しようとしまいと、世界は日本の後を追いかけている。
 
 私も茶道で使われる茶碗の価値などはわからないが、どう見ても出来損ないみたいなゆがんだ茶碗が、数百万円単位で売り買いされる(そのことがよいとは思わないが)のは、日本人の美意識の特殊性を示しているのではないか。といって、本当の出来損ないの茶碗は無価値なのだから、ゆがんでいればよいと言うものではない。
 
 歌会始の儀から延々と書いたが、これほどの国をおとしめ、他国に売ろうとしている者達には、文化とは何か、なぜ日本が守るべき価値のある国なのかが全く理解できないとしか思えない。
 



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